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2024年01月29日15:44

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フィクションと現実(56) 大都市や都市化の進展をプラスに評価した俳句や短歌

 古谷智子編著「都市詠の百年 街川の向こう」短歌研究社平成15年(2003年)などを参照した。

 1.東京など大都市への期待を詠う
 もともと住んでいた人もいるだろうが、大多数は大学入学や就職のために集まったわけで、期待の心で来るのは当然ではある。

 石田波郷(1913―63)昭和7年に松山から上京。
 「バスを待ち大路の春をうたがはず」1939昭和14年
 「束の間や寒雲燃えて金浄土」東京は空襲で焼け野原になったのだが、焦土が夕焼で金色になったと見て、あくまでもポジティブな人のようだ。

 北原白秋(1885―1942)福岡県柳川市の裕福な商家に生まれ、1904明治37年に上京して早稲田大学予科に入学。
 「いそいそと広告燈も廻るなり 春のみやこのあひびきの時」1913年大正2年
 「いちはやく冬のマントをひきまわし 銀座いそげばふる霙かな」大正2年

 吉井勇(1886―1960)東京生まれ、祖父は薩摩の人で、維新への功績で伯爵。
 「ああ銀座こころ浮かれて歩みしも いつか昨日となりにけるかな」昭和5年
 (京都だが、「かにかくに祇園はこひし寝るときも 枕の下を水のながるる」明治43年)

 窪田空穂(18777―1967)長野県生まれ。早稲田大学卒、早稲田大学教員。
 「五十とせを住継ぎければ東京は ふる里なるぞいざ帰りなむ」昭和26年
 ・・・陶淵明「帰りなんいざ、田園まさにあれんとす」帰去来の辞を思い出すが、今や東京が故郷になったという。

 前 登志夫(1926―2008)奈良県吉野の林業家に生まれ、同志社大学を応召により中退。大阪で大学教員、林業経営。
 「地下鉄の赤き電車は露出して 東京の眠りしたしかりけり」昭和39年
 ・・・地下鉄が高架を走っている情景なのか?

 2.都市へのネガティブ俳句もある。
 土屋文明(1890―1990)群馬県高崎市の貧しい農家に生まれる。東大卒。松本高等女学校教員、法政大学、明治大学教授。万葉集研究。文化勲章受章。
 「無産派の理論より感情漂白より 現前の機械力専制は恐怖せしむ」昭和10年
 ・・・労働者から仕事を奪うと言っているのか? それともチャップリンの「モダンタイムス」を見て、労働者を機械の一部にしてしまうと思ったのか?
 しかし、もともと建設工事などは機械力がなければ不可能なのだが。それとも、土屋氏はヨイトマケの「母ちゃんのためならえーんやこら」でやれると思っているのか?

 岩田正(1924―2017)東京生まれ、早稲田大学卒。高校教諭。妻は歌人の馬場あき子。
 「忽然と活路ひらくる思ひして 街歌ひ来るデモを見て立つ」昭和31年
 ・・・賃上げの春闘のデモなのか? それでも政治的スローガンの方が多かったのでは? 官公労はソ連派の革命主義だった。その後を見れば、革命にならなくてよかったと大多数の人が思っているだろう。

 塚本邦雄(1920―2005)滋賀県五個荘村(北近江市)出身。両親は近江商人の家系で、神崎高商卒とのこと。勤務地は大阪。戦時中に広島で原爆の雲を見たという。
 「水道管埋めし地の創なまなまと 続けりわれの部屋の下まで」昭和31年
 ・・・水道管は明治時代からだと思うが、下水道管が東京などの大都市中心部以外に普及しだしたのは高度成長の頃だったと思う。アメリカから、日本はアメリカへの輸出でなく内需で成長するように厳しく指導された。
 「日本脱出したし 皇帝ペンギンも 皇帝ペンギン飼育係りも」1959年昭和34年 が代表作とのことだが、塚本氏の俳句は日本文化への嫌悪感が強いようだ。
 水道も水洗トイレもいらないのなら、どこかの山奥に住めばよかったのでないか。

 高野公彦(1941―)愛媛県生まれ、東京教育大卒。河出書房編集者、大学教員。
 「通勤の電車にて二十分あまり扉に靠(もた)るるをわが憩とす」昭和51年
 ・・・20分なら恵まれていたはずだが?
 道浦母都子(1947―)和歌山市生まれ。祖父は部落解放運動家、政治家。父は大坂工業大卒、千里ニュータウン開発に従事。
 「明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし」昭和55年
  ・・・映画「七人の侍」で、侍を雇うかどうか村人の議論の最後に、長老のじいさんが「べし」と一言だけ言った。

 仙濤龍英(1952―2000)東京生まれ。早稲田大卒。ホラー小説家。
 「夕照はしづかに展くこの谷の PARCO三基を墓碑となすまで」昭和60年
  ・・・「君が代は千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまで」の替え歌みたいで、東京と日本の歴史への嫌悪感が見える。

 3.事実だけで価値判断はなさそう。
 佐伯裕子(1947―)東京生まれ、父方の祖父は土肥原賢二陸軍大将。満州国建国など中国工作を担当していたことで、蒋介石の強硬な主張により戦犯として処刑された。
 「夫と子を送りて覗く朝戸口 彼らまばゆきガラスの坩堝へ」平成3年
  ・・・最後の一人が自首した東アジア反日武装戦線が爆破したビルでは、窓ガラスの破片が歩道へ降ってきた。歩行者にけが人が出たと思うが、新聞のコメンターだったかが、ガラスのビルを作った方が悪いとか言っていた。

 古谷智子(1944―)
 「交差点に塞き止められし人の群れむれの中にて群れをみてをり」平成2年
 ・・・エドガー・アラン・ポー「群衆の人」からの連想だろう。

 大塚寅彦
 「近未来兵舎なしつつ男らの 睡るカプセルホテルしづけし」平成7年
 ・・・タイムスリップするSFの宇宙船みたいだが、東京へ出張する時は上野のカプセルを愛用していた。サウナが気に入っていたし、上野駅前で朝粥定食を食べて「朝粥を喉いつぱいに冬隣」。


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