1.小説の題名として、欧米系では主人公の名前を使うことが多いような気がする。19世紀までに多くて、戦後小説ではほとんど無いようだが。
伝記や自伝は大きな業績を上げた人物を世に知らしめるためのものだが、小説ロマンでも同じスタイルでフィクションの人物を描くものがあった。ただし、現代に近くなるほどその数は減って言っている。
ウォルター・スコット「アイヴァンホー」 征服王ウィリアムの騎士だが彼だけがアングロ・サクソン人だった。英国人として一つになってほしいという願いがこもっている。
シェイクスピアの悲劇「リア王」、「マクベス」、「ハムレット」、「オセロ」
王侯・貴族だけではなく普遍的な教訓でもある。
ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー」 植民地人との不等価交換によって一攫千金を目指す冒険商人批判でもある。
ヘンリー・フィールディング「トム・ジョウンズ」
シャーロット・ブロンテ「ジェイン・エア」 女性の時代の始まりの人。
チャールズ・ディッケンズ「オリバー・トゥイスト」、「デイヴィッド・コパフィールド」 著者の自伝的要素が入っている。
マーク・トウェイン「トム・ソーヤー」、「ハックルベリ・フィン」
ミゲル・セルバンテス「優秀な郷士ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」
アルフォンス・ドーデ「タルタラン・ド・タラスコン」
陽気でほら吹きで小心者のタルタランは南仏タラスコン気質の典型とのこと。
フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
3人兄弟でロシア人気質を代表させた。プーチンは正統な3人兄弟というより私生児のスメルジャコフかもしれない。
ギュスターヴ・フローベル「ボヴァリー夫人」
トルストイ「アンナ・カレーニナ」
D・H・ロレンス「チャタレイ夫人の恋人」
不倫3部作みたいな感じだが。
2.日本の場合
主人公に注目した「次郎物語」があるが、地域に特有の「気質」を描くものが多いと思う。
今東光「河内気質」
藤沢周平「海坂藩」の武士(今の山形県鶴岡市)
早船千代「キューポラのある町」 埼玉県川口市 戦後の在日朝鮮人の帰還問題を背景として。
山田洋二監督「男はつらいよ」 葛飾柴又の寅さん
日本の場合「私小説」というジャンルがあるのだが、フランスの自然主義を学んだらしく、作家が自身を科学的に解剖して人間の(小さい)真実を見せたが、面白くないから仕方がない。
田山花袋「蒲団」だが、女弟子に去られた作家(花袋)先生が布団に染み付いていた女弟子の匂いを嗅いで泣くというフェティシズムを告白して評判になったとのことで、後のフティッシュ谷崎潤一郎の先駆者だが、他人のフェティシズムを聞かされても仕方がない。「他人のセックスを笑うな」という小説があるらしいが、そのとおりである。
むろん、谷崎は「細雪」の4人姉妹で逆転ホームランだったが。
欧米の「主人公」小説が、ニーチエみたいな「この人を見よ」であり、やるだけやって悲劇に終わっても満足だろうと思わせるのに対して、日本の「私小説」は自虐に終わった。
3.最近亡くなったが西村賢太は正確に自身のことだそうで、私小説には違いないが、坊ちゃんみたいに短気で無鉄砲な性格だが、抜群の記憶力を武器にして作家を目指す成長(教養)小説であり、欧米流の正統派主人公小説と言って良い。
大江健三郎の「個人的な体験」と「懐かしい年からの手紙」も、同じく自虐はなく、困難を乗り越えて行く主人公小説と言って良い。
大江のその他は、太平洋戦争に負けて、それでも天皇が健在の日本批判・嫌悪小説というべきで、評論との違いは比喩が多用されていて、一見何のことか分からなくなっていること。
村上春樹も「海辺のカフカ」を代表として、比喩と隠喩によって太平洋戦争に敗北した日本批判した小説群が多い。
確かに、冷静に軍事力と経済力・工業力を比較分析した結果の先制攻撃・開戦でなかったことは批判されて当然だが、戦後の復興と工業力や科学力の発展を見ずに、オウムのように反戦平和を繰り返す。
もはや昭和戦前の日本ではない、という現在までの企業努力を描いたのがNHK「プロジェクトX」だったのだが。むろん、企業だけでなく気象庁の藤原寛人課長の富士山レーダー設置もそうだったが。最後の場面で藤原課長は気象庁を退職し、作家・新田次郎になったというナレーションに驚いてしまった。
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