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2023年02月26日08:30

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浮世の謎(15) 敗戦しても戦後になっても、戦前・戦中と同じで変わらなかった人たち

 鏑木蓮「思い出探偵」PHP文芸文庫2013―2016第5冊(原本2009年)所収の「少女椿のゆめ」

 思い出探偵は、老女トモヨ(つまり、かつての少女椿)に依頼されて、少女の頃に米兵に犯されるところを救ってくれた少年(今は老年)を探すことになった。
 むろん新聞記事にはならなかったのだが、日系アメリカ人の通訳など探って行って、その時にいた米兵にたどり着く。
 大阪の安治川の土手で起きた事件だった。米兵が川に落ちた少女を助けようとしていた時に少年に殴られ、その傷が元で死ぬのだが、その米兵が「誤解した少年に罪はない」と証言した。しかも、自首して出たことで少年は放免された。
 その少年の名は、その時逮捕した米兵によるとコデューナトシイゲだと名乗ったとのことで、米兵を殴って気絶させたその場に座り込んで逮捕されるのを待っていたという。

 で、その少年にたどり着くための手掛かり。
 少年は「くらしてしもた」と言ったとのこと。これは伊予方言だった。
 少年の落としたお守り袋を少女が拾っていた。それは広島県呉にあるK縫製の製品だった。
 お守りの紋は、六つ鉄線(鉄線はクレマチスの花)で、伊予の忽那水軍の旗印だった。
 お守りの中に「本字壱号」の墨印があった。これは「勘合符」で瀬戸内のもの。
 そして、トモヨの記憶を基にした少年の似顔絵(モンタージュ)。

 ということで、伊予松山の沖合にある忽那諸島を本拠にしていた忽那水軍にたどり着く。
 島の神社で尋ねたが、「何も分かっておらんのに、無理ぞなもし」と言われたが、似顔絵を見せると、あの船大工に似ていると。

 その人物がコデューナトシイゲ小綱利重だった。

 ついに本人に面会できたが、13歳で呉の海兵団に入隊したが、何もしないうちに終戦になったと。
 がいな、かいしょなし(大変な意気地なし)で、戦死できなかったと恥じているのである。
 それで、アメリカ兵を殴っておいて、逃げずにその場で座っていた。
 アメリカ兵に殺してもらうつもりだった。それで戦死できる、と信じた。
 そして老人になった今も、米軍への敵意は健在だった。

 小綱少年が、自分の名を「コデューナトシイゲ」と名乗ったのは、伊予方言での話し方を日系アメリカ人の通訳がそう聞き取ったというわけである。

 戦後のことで、定説のように語られているのは(今頃は重々しく「言説」と言うらしいが)、当時の青少年たちは、終戦と同時に(特に学校の教師たちが)、鬼畜米兵と言っていたことをがらりと変えてしまったことで、日本人・日本政府・日本文化に、根強い不信感を持つようになったのだと。たとえば、伊予松山の奥の山間の村に生まれた進歩的文化人の大江健三郎が典型である。
 しかし、その現象は広く一般的に起きたことだったのだろうか。本書はその定説に疑問を呈していることになる。

 で、小綱利重と同じ気持ちを持っていた人物として、篠沢秀夫(1933-2017)・学習院大学仏文学教授がそうだった。
 「愛国心の探求」文春新書1999年(平成11)で、終戦直前に召集され九十九里浜で上陸してくる米軍と戦うことになった。しかし、配置されてすぐに終戦となり、戦うことも戦死もできなかった怒りと落胆で、いっぱいになったとのこと。しかたなく学習院大学でフランス文学を勉強することになったのだと。

 篠沢教授については、テレビ番組「クイズダービー」で知っていた。愉快教授ということで宮崎美子だったか竹下景子だったかとの掛け合いが面白かった。その教授がなんで「愛国心」? と思って読んだのだと思う。

 同様のことは、長谷川三千子(1946.3―)埼玉大学哲学科名誉教授が論文「戦後世代にとつての大東亜戦争」雑誌「中央公論」1983年3月号に書いている。終戦前後に生まれた者は、戦前のことを両親から何も教えらずに「空白」として育つ。つまり、全面的に否定されたわけで、その思い出を子供に語るわけにはいかないのである。
 私海風は1945年(昭和20)なので、まさに同世代だった。普通の家だったが、それでも負けた戦争で、しかも全否定された戦争の時を話してくれることはなかった。戦後の食糧難のことばかりで。
 長谷川の生まれたのは野上家で、祖母は野上八重子で両親も進歩的文化人だった。それで結婚して長谷川家に嫁いだことで、普通の日本人の心を持った人がいることを知ったのだと。


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