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2020年07月03日21:28

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ファンタジーの中へ(121) 三宅興子「児童文学の愉楽」翰林書房2006

 1枚目 「ちびくろサンボ」 虎がバターになった場面
 2枚目 「大草原の小さい家」
 3枚目 「黒馬物語」 大地主の牧場が人手に渡り、売られたブラック・ビューティーは馬車を引くようになった。

 著者は梅花女子大学教授、児童文学専攻。本書はイギリス児童文学論を出版した後に残った論文やエッセイを集めたもので、一貫性には欠けるが、私の読んだものも批評されているので、著者の読みと比べることにした。したがって、私の読んだ範囲に限るし、著者の取り上げなかったものも論じている。

 1.子供への先入観と実際のニーズ
 1)大人と子供
 石井の「図書館」では、子供たちが何をどう読んでいるか紹介して、児童書でなく大人向けのものも読むと言っているが、これは私もそうだった。しかし紹介されている子供たちの読む数には負けた。
 L・H・スミス「児童文学論」では、児童書は大人の文学と基準は同じ、その上で、大人とは違った読みのできる特長を持つ、とする。
 「アリス」は、大人と子供の二重の経験内容から書かれていて、この二つのレベルから考察し。評価しなければならない。という。

 2)子供の人気のあった「ちびくろサンボ」
 著者は「ちびくろサンボ」を絵本の代表として紹介している。私の場合は、石井桃子「子どもの図書館」岩波新書 での読み方の解説に感動して、サンボと石井桃子のファン(といっても、童話では「ノンちゃん雲に乗る」しか読んでいない)になった。ところが、差別だとの一方の声に押されて岩波は石井の編集した第一冊目の「サンボ」を絶版にしてしまったのである。

 3)長くても良い
 いぬい・とみこは子供は長い話を読めないという縛りに反発して、「ながいながいペンギンの話」を書いたとのことである。それで長いからダメという通説を破った。
本書の成功は、主人公の動物の生態を調べてその基礎の上に書き、人間と動物は口を利かずとも心を通じ合わせられることを描けたことによる。

 2.実生活と遊びの物語
 1)日常生活の場で
 「若草物語」は当時のアメリカ東部の家庭の実生活を描いたものであるが、主人公のジョーは類型的な少女像(つまり当時の期待される少女像)から一歩抜け出て現実的な存在に近づいている。
 このタイプで最も完成された家庭小説として「インガルス一家」シリーズがある。第1作は ローラ・インガルス・ワイルダー「大きな森の小さな家1932」で、ローラの物心ついたときの家である。
 一家の家族史がそのままアメリカの開拓史であって、社会の中での家族の役割と意味が、毎日の暮らしと主人公ローラの成長を通じてくっきりと浮かび上がる。
 ★海風注:果樹園農家の主婦で副業としての豚や鶏など小動物飼育の名手だったローラだが、それまでものを書いたことはないという。実際には、ローラに執筆を勧め、その回想を読みやすいように書き直したのは、ジャーナリスト・ライターの一人娘ローズだったらしい。ローズはアメリカ農業は自立した家族経営を基本とすべきとして、雇用型の資本家的大農場の増加に危機感を抱いていた。そして社会主義的なルーズベルト民主党に反対し、ルーズベルトに惨敗した共和党のフーバー大統領支持派だった。
 ということで、単なる開拓時代の仲のよい開拓農家の回想記ではない。アメリカ農業とアメリカ人のあり方への主張を秘めている。

 2)遊びから始まる
 マーク・トェインはトムとハックのシリーズで、毎日の暮らしが冒険であり、遊びであり、人生であることを根源的に描き出した。
 「トム・ソーヤーの冒険」1876
 「ハックルベリ・フィンの冒険」1884
 悪童もので、トムたちの冒険ごっこや小事件が大人社会のパロディーになっている。
逃亡奴隷のジムと共に筏でミシシッピー河を下って行くハックの暮らしは、束縛と虚偽からの逃亡、自由を求める旅でもある。ハックの目を通すと河岸に住んでいる人々の営みが非常に歪んでいる。
 トウェインは大人への「イニシェイション」を扱うジャンルの開拓者である。
 ★海風注:
 梁塵秘抄の「遊びをせんとや生まれけむ」だが、元々はニューヨークの令嬢であった新妻から中西部での少年時代の話を知りたいと言われて書いたものだとのこと。
 ほとんど登場しないが、優等生で嫌な性格の弟シッドがトウェインの実際に近く、トムの方は空想の世界の少年だったに違いない。
 そして遊び暮らしは家出を頂点として、その後は社会の裏面が描かれだして殺人事件の目撃と恐怖におびえながら真犯人を暴く裁判の場に至る。
 影響関係があるのかどうか知らないが、キャロル「アリス」1865 も女王の独善で裁かれようとした無実の者の弁護に立つ。それまでのレトリック、論理や詭弁の遊びは真剣勝負の証言の場に一転してしまった。
 「ハック」の場合は、逆にハックの真剣勝負からトムの遊びで終わるので、この展開の評判が悪い。多分、トウェインにとっては、遊びと真剣勝負は紙一重の差だったのだろう。だからユーモア作家なのである。

 フィリッパ・ピアス「ハヤ号セイ川をゆく」1955
 デイビッドは洪水で流れてきたカヌー(ハヤ号)の持ち主を探してセイ川を上って、屋敷に住んでいる持主のアダムと友人になる。アダムの父母はなくなって、おじいさんの屋敷に引き取られて、そこで独身の伯母と三人で暮らしているのである。
 しかし屋敷は抵当に入っていて明け渡さなければならない。アダムは先祖から言い伝えられている宝を探し出すことを決心し、デイビットが協力する物語である。

 3)遊びそのものの賛歌
 一連の休暇物語 アーサー・ランサム「ツバメ号とアマゾン号」1930
 ランサムはジャーナリストの仕事より、魚釣りに重きを置く。ホモ・ルーデンスそのもので、子供の価値を生きているのである。
 ここで描かれなかった背景の現実を背負っている読者に、子供時代の価値を気付かせ安らぎの場を提供してくれる。
 ★海風注:ランサムの名前は岩波のカタログで知っていたのだが、ついに読んだことはない。子供だけでヨット遊びをすると言う設定に実感がわかなかったせいもある。ジュール・ベルヌ「十五少年漂流記」1888 はリーダー格の二人の少年の対立と和解の物語で、愛読書だったのだが。

 4)心の問題を描く
 「小公子」1886、「小公女」1905、「秘密の花園」1911
 一面的な性格描写から多面的になり、表面的な見方から深層へ、天使のようなよい子から嫌な性格の子を描けるようになった。
 二十世紀の児童文学では、子供の口から自分の気持ちを語ったり、作家が心理のひだに分け入ったりする傾向がある。
 ★海風注:
 「秘密の花園」は河合隼雄の心療内科そのもののような物語。孤児でわがままな少女と母を亡くした引きこもりの独裁者の少年は、少年の母がそこで死んだことで、父によって亡ぼされた花園を、動物や植物の心が読める少年の助けを借りて復興させるのである。花園の復活過程が同時に病んだ心の回復過程であることを示している。
 「小公女」はインドで裕福な家庭に育ったが少女セーラは、母が死んだことで父によってロンドンの寄宿学校に入学させられる。学校では女王様扱いだったのだが、父の破産と病死により行先がなくなり寄宿学校の下女として暮らすことになった。いじめを受けながらもセーラは女王としてのプライドと生来のやさしさ忘れなかった。
 豊かな時も貧しい時も人間性を変えない人間像は、ディケンズ「リトル・ドリット」1857 で描かれているが、「小公女」も同じく、あるべき理想像を描いている。

 フィリッパ・ピアスも子供を内面から描く名手ということで、本書では短編を紹介しているのだが、本格的には長編の「トムは真夜中の庭で」ではなかろうか。孤児になって裕福な遠縁に引き取られた少女が皆に無視されて、心を開かずに独り庭園で過ごしていると、突然にパジャマ姿の少年が現れて遊ぶようになる。
 二人で凍結した川をスケートで下る冒険で初めて屋敷の外に出たことがきっかけとなり、大人になった少女は結婚相手を見つけて屋敷を出て行くのである。心の成長の物語とも言える。形式的にはタイム・トラベルものに分類されると思う。

 3.自己発見の物語
 J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」1951
 ホールデン少年の独白による内的世界と虚偽に満ちた大人の世界の対比が描かれている。
 ★海風注:もう退職してから読んだのだが、同級生や学校への不平不満と毒舌で始まるのに驚いた。似たものとして思い出したのは昔読んだセリーヌ「夜の果ての旅」だった。   
 ホールデン少年は豊かな家庭に育ったものの、精神的には孤独だったらしい。寄宿舎付きの学校を何度も退学になり、父に新しい学校に入れてもらいを繰り返した挙句、とうとうすべてを捨てて家出する決心する。
 小説の内容は、一旦家に帰ろうとしてさまよう過程が描かれている。以前の学校でそれなりに尊敬していた先生宅に行って、こんな奴だったかと逃げ出し、実家のある街のあちこちをさまよって金のなくなった後、真夜中だったが妹だけに別れの挨拶をすることにした。
 で、妹の寝室に忍び込んで揺り起こし、オレは家出するんだと打ち明ける。ところが妹はそれなら私も一緒に家出すると素早くカバンに旅の準備を整える。少年の理性は、それは無理だとささやいたのだろう。結局、家出をあきらめ父の指示に従って精神病院に入院して終わる。
 著者の三宅は「自己発見の旅」物語だというが、私には到底見えない。むしろ、自分を信頼してくれる人物(ここでは妹)がいた、という発見が、自身の更生を促したわけだし、同時にその人を守らねばならないという責任感を目覚めさせた。大人になるための旅だったと思う。

 ★海風:まとめ
 1.児童小説と大人の小説の境界
 デフォー「ロビンソン・クルーソー」はむろん児童小説ではないのだが、孤島での生活が、まるで孤島生活入門のように克明に描かれていて、子供でも読みだしたら止められなくなる。心理小説などのジャンルは子どもには分からないし、大人でも退屈することがあるが。スウィフト「ガリバー旅行記」も同様で、何を皮肉っているのか分からなくても、状況は良く分かるのである。そして裏側については後からだんだん分かってくる。

 それに「ロビンソン・クルーソー」の生活は、経済史学者によって、大商人・冒険商人の時代から勤勉な人間が商品を生産する資本主義の時代への転換を表わすものとされてもいた。

 2.動物物語
著者の三宅は動物の生態に即して描くべきだと主張している。最初にいぬい「長い長いペンギンの話」を紹介したが、極点にまで発展したものが、リチャード・アダムズ(1920−2016)「ウォーターシップ・ダウンのウサギたち」1972 だとする。
 確かにそうだと思うが、時代的に早いのは、アンナ・シュウエル(1820−1878)「黒馬物語」1877 ではなかろうか。これは子どもの頃の愛読書だったが、馬というのはこんなにも賢く、人と心が通じる生き物なのかと感動したものである。
 その時はむろん作者への関心はなかった。変わった姓だと思ったぐらいだが、今ウィキで簡単な生涯を見て驚いた。子供の頃の怪我で普通に歩くことができなくなり、ポニーの馬車で父の送迎をしていたとか、熱心なクウェイカー教徒の母の慈善活動や子供用の聖書物語を書くのを手伝っていたが、肺結核となって「黒馬物語」を母に口述筆記してもらって死の前年に出版したのが唯一の著書だとのこと。
 生きていくのになくてはならない馬への感謝の気持ちで書いたのだろう。そして動物愛護運動の原点になったのだと思う。賢く性格の良いブラック・ビューティーはどこに買われて行ってもなくてはならない存在として大事にされるのだが、彼の友の牝馬は気性が激しく牧場の時から気に入った人しか乗せなかった。そして荷馬にされて鞭で打たれて動かなくなり、ついに殴り殺されたのである。
 それより先に、私が最初に賢い動物だと思ったのは、シートン(1860−1946)の「ギザ耳ウサギ」の母ウサギであった。蛇に噛みつかれたわが子をみて、蛇に飛び掛かり爪でひっかき、何度も蛇に飛び掛かって自分の方に噛みつくようにさせて子供を逃がして、それでわが子はギザ耳になったのだが、それからは厳しい教育をし、狐からの逃げ方を教えたりの描写が続いた。
 リチャード・アダムズは自身をシートンの後継者と位置付けていたとのこと。したがって、登場させるイヌやヒグマもその生態に忠実である。そして悲劇は許さないとの信念(この点はシートンと違う)で、ラストはどんな無理をしてでもハッピーエンドにするのである。たとえば「疫病犬と呼ばれて」では、医学研究所の実験用の犬舎から、自身の運命を知った二匹の犬が逃げ出した。むろん、治療できない感染病にかかっているだというので、厳重な包囲網を作られるのだが、それをかいくぐりかいくぐり、ついに逃げ場を失って海に飛び込んで沖を目指した。
 ところが、その時点で、この犬はまだ病気に感染していないことが分かった。そして丁度その時、船が通りかかり少女が二匹の犬を発見するのである。アダムズは、いざとなればリアリズムを放棄して、デウス・エキス・マキナ(機械仕掛けの救いの神)の使い手となるのである。


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