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2014年03月28日19:45

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フィクションの中へ(33) 大江健三郎「厳粛な綱渡り」続

 ここでは、大江の文学論についてまとめたいのだが、彼が背景として設定するのは日本の「停滞した」と彼が考えている政治状況なので、政治的意見を切り離すことは適当ではない。

1.「・・・あいまいな閉ざされた状況にいる人間を書きたいと思う。ぼくはそういう状況の中で、やるせないいら立ちに身もだえし、あるいは狂気のように騒ぎ立て、あるいは無気力に沈黙している、同年代の多くの人間を見てきている。」(p41)
―日本の状況がそうだと大江は考えているようだが、しかし、明治以来の青年には一般的にそう感じられるのでないか。身分から放たれて自由になったわけだ。「青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」という歌もある。さらに言えば、高村光太郎の言うように「僕の後ろに道ができる」という自信を持っている者もいるし、悪くしても冒険であることは間違いないのだが。

「(ハンストしている学生がネズミのような顔をしているのを笑ったような)そういう要素がファシズムとむすびつきはじめる、芽の部分を摘発したいと考える」(p42)
―実際、大江が理解しづらいのは、何のための描写か分からないところがあるからだと思う。笑ったのは同情がないからだが、ファシズムとの関連など分からないし、これが昔の社会主義リアリズムなら分かるように書いたのだが・・・そのかわり面白くなかった。

2.昭和33年、小松川高校女子生徒殺人事件の犯人は韓国人の未成年で、殺人後、屋上のくぼみに死体に腰掛けて隠れ、逮捕されるまで、新聞社に電話したりして殺人を誇示した事件について、「・・・背後にほっておくと、息をふきかえした死体が息をひそめておそいかかってきそうな気がしてこわい・・・そこで少年は死体に腰掛けた」死後硬直で丁度よかったはずと大江は説明している。(p66)
 ―死後硬直云々など、ブラックユーモアでないか。それはおいて、活動的な加害者は主人公になれる。とくに、抑圧されていた者が加害者に転換する設定はもっともよいに違いない。被害者でも社会活動をするようになれば主役になる(ヒロシマノートのように)。

 3.小林秀雄の私小説への言及を引用して、「私小説は亡びなかった、人々は「私」を征服しなかった、そして私小説は新しい形をとることがなかった」(p171)
 「ノーマン・メイラーのいうように自己探検の旅を自分の内部でおこなうことと、小説を書くこととを統一したいとねがうものである。・・・そこで僕の文体はC(志賀直哉の非個性的文体)のそれよりB(生活者の生の言葉)の不均衡で偶発的な歪んだ文体に近づく」(p178)
  −大江の文学論をもっともよくあらわしている部分だと思う。大江の言う、自分の内部の多くが性的なものなのだが、たしかにそれはある。だからと言って、うまくいったと得意になり、逆に落ち込んで無気力になったりする日常に、一々性的なものが関わるわけではないし、フロイトのように性的抑圧のモチーフを教えられても、それで納得できるものでもない。

  4.飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か? というサルトルの言葉に対するクロード・シモンの反論。「アフリカ人の作家が、小説を放棄して言葉を教えたにしても、言葉を読めるようになった生徒たちは・・・何を読めばいい。・・・しいたげられてきた階級は、権力を握った後も、追い立てられ、あざむかれ、血祭りにあげられた獣の反応をもちつづける。・・・(殺した後)往々にして友人の死体が横たわっている。」(p220)
 ―サルトルの限界だったと思う。イエスいわく人はパンのみにて生きるにあらず。同じことは、魯迅も言って、革命の時代に文学は不用だとした。これではまっすぐに文化大革命の元俳優の紅青夫人の道ではないか。小林秀雄も、戦場に行けば鉄砲を持つばかりだとした。小林への反論として、花田清輝は「南の島に雪が降る」を例として、加東大介は戦場でも歌舞伎を捨てなかったと指摘している。

 5.「ロレンスの性の太陽は陰湿なキリスト教社会をてらす光輝に満ちた教育家の太陽であったが、それは人間の性的存在と人間的存在自体とを縄のようによじる絶望的な悲惨の暗がりをてらすものではなかった。」(p230)
 「ヘンリー・ミラーは性の快楽、性の太陽的側面よりは、性の情熱の強烈な悲劇的固執にその文学を位置させる点で実に現代的な作家である。」(p231)
 ―人は性のみには生きるにあらず。マズローは自己実現を精神的最高の段階としている。むろん、それほど達成意欲の強い人間は模範ではあるが、パチンコに休日をつぶす人も多い。しかし、パチンコは日本だけで、残念ながら欧米文学のモチーフにはならなかった。大江にもパチンコの場面はなかった。「下妻物語」にはあったが。ということで、メイラーやミラーの性文学が下敷きとなったのだろう。

 6.「政治的人間は他者を対立者として存在させ始めることにより機能を開始する。・・・性的人間にとってこの宇宙に異物は存在せず、他者も存在しない。性的人間は対立せず、同化する。」(p233)
 「現代日本は、性的人間の国家と化し、強大な牡アメリカの従属者として屈服し安逸を享楽している・・・性的人間の国家において、政治的人間はアウトサイダーでしかついにありえない。」(p234)

 7.「ぼくは現代日本の青年一般をおかしている停滞を描きだしたいと考え、性的イメージを固執することでリアリスティックな日本の青年像をつくりだす・・・」
 「ロマンティックに異国の革命に胸をおどらせるほかはない性的人間の致命的な行動不能、停滞をえがきたい」(p236)
「そしてしかもわれわれに性的昂揚のほかにいかなる昂揚もおとずれないとすれば、これが悲劇の核心となるだろう」(p237)

 8.「ぼくは性犯罪者に興味と関心をもっている。とくに強姦殺人者と、ごくちっぽけな性犯罪をおこなう痴漢に関心がある。・・・1960年代のサド侯爵はこそこそと血眼で電車をわたりあるく痴漢として存在しているのではないかとぼくは空想している。」(p258)
「つねに変わることのない文学の主題「人間とは何か」の研究を一歩すすめるための新しい手がかりとして「性的なるもの」を採用すべきだと考えた・・・」(p269)

 6、7,8が、大江に特徴的な性的視点による方法論である。日本は牝となり性的人間になった。これが問題だというなら、ドゴールのようにアメリカに対抗する軍事力をもてばよいのだが、むろん大江は認めない。むろん、日本は軍事力以外の技術力、経済力で戦前以上の国となった。ある政治家はアメリカを番犬さまと呼んだ。池田首相はパキスタンだったとおもうがブット首相からエコノミックアニマルだと批判されたし、名は忘れたが日本の官僚が、商人国家でよしとした。
 大江は、商人国家とそこに住む人々のポジティブな側面を描くべきだったろう。停滞や葛藤、軍国化の危機ばかり描かれても、最初のうちはショックを受けるが馴れてしまうのである。だから、ますます過激に、となれば麻薬のようなものではないか。かれの小説は性的麻薬中毒にかかっているといわざるをえない。

 「性的人間」1963 を事例として検討する。最初の場面は、俳優や芸術家たちのグループが、ジャガーで主人公のJ(もうすぐ30歳)の別荘に向かっているところである。といえば、フェリーニ「甘い生活」1960 そのものだった。
ある朝、不意にJは痴漢となることに定めたのだった。と言われても分からないが、最後の場面で、「(地下鉄の中で痴漢行為をした後)、数人の腕がJをがっしりとつかまえた。Jは恐怖のあまり涙を流しその涙を自殺した妻があの夜のあいだ流しつづけた涙の償いの涙だと思っていた。」とあって、これが性的人間の自己処罰だったことが分かる。
 ただ、この設定は、カミュ「異邦人」の最後の場面と同じなのだ。30歳というところも。カミュもイエスの十字架刑をなぞっているのである。

 なんだか、否定的なことばかり並べたが、本当は、大江の後期作品で「性的人間」からの発展を、あるいは肯定的な「政治的人間」像を見たいのであるが、まだ私の眼力にあまるようだ。後期作品は、メイラーやミラーでなく、ダンテやドンキ・ホーテなど古典作品を論じながら展開する評論小説になっている。日本の「停滞的社会」を背景としていることは前期と同様なのだが、古典の持つ力によって小説世界を安定させようとしているのだろうか。もう少し、検討しなければならない。

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