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2013年02月13日10:33

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ファンタジーの往還(22)  心理療法からの解釈(2)

 イザナギの冥界降りの時、約束を破られたイザナミの怒りはすさまじいものであった。日本神話の中での白眉だとおもう。
 古事記がヨーロッパに紹介された時、人々を驚かせたのはギリシャ神話のオルフェウスの冥界降りとの類似性であった。オルフェウスも振り返ってしまい、妻のユーリディケーを連れ戻すことはできなかった。しかし、ユーリディケーはイザナミのように死神になってまでの怒りはなく、ただ、悲しみだけが残ったのである。
 ここに具体的な教訓を求めるならば、たとえ善意であっても墓を暴いてはならないというタブーがあると思う。生き返ってほしいのならば、アマテラスの岩戸隠れの時のように、外で楽しくどんちゃん騒ぎをして、大笑いすれば墓(岩戸はどうみても大岩を組んだ古墳で、お隠れになったというのは亡くなったの意である)から出てくれるかもしれない。それも、すでに冥界で食事をしていれば駄目になる。その時は、あきらめるしかない・・・ということになる。

 脱線したので元に戻すと、妻の突然の怒りとして思い出されるのは小泉八雲「雪女」である。夫が「昔、雪女に会った・・・」と言っただけで、怒り狂って家を出てゆく、子どもが哀れだから命はとらないでおく、と言い残して。確かに、あの時のことは言わない、もし言えば命をとる、との約束はあったのだが。何年たっても雪女の本性は消えないようなのだ。

 もし、心理療法家の元へ、この夫が相談に来たら何と助言すればよいのだろ
うか?
 「恋しくば尋ね来て見よ泉なる信太の藪のうらみ葛の葉」は、狐の本性を見つけられ、去ってゆく時に夫に残した歌である。この場合、相聞歌であるから返歌しなければならない。おまけに住所が特定できるのだから。カウンセラーとしては、当然、歌を作って信太の藪へ行きなさい、と答えるのであろう。
 雪女の場合は、雪山へ行かなければならない、ということになる。確かに、妻の里をほったらかしておいてはいけないのだろう。たとえ、妻が自身の里を恥じていたとしても。というより、その時はなおさらである。

 島尾敏雄「死の棘」1960は、怒りのあまり精神異常になった妻の看病の記録である。普通の看病ではなく、常軌を逸した怒りを一身に受けるのだから大変である。読んでいる方は、この地獄の責め苦が永遠に続くのかと思ってしまうが、現実には入院期間を入れて数カ月のことであったらしい。退院後は、妻ミホ氏の実家のある島へ戻ったのである。1956年とのこと、つまり、戦後東京にいたのは10年間にすぎなかった。
 そもそも、島尾夫婦のなれそめからして神話的だった。「出発は遂に訪れず」1964 には、魚雷艇の特攻として出撃すること、同時に、島長の娘で恋人であったミホ氏が自決する覚悟だったと記されている。結局終戦で出撃はなく、九州へ復員した島尾を追って占領下の島を脱出したミホ氏と結婚、という波乱の経過をたどったのである。

 夫の浮気を知ったミホ氏の怒りはすさまじく、イザナミの怒りに匹敵するといえるのでなかろうか。結局、家族一緒に繁栄と退廃の都バビロンを去り、妻の故郷南島へ移住することで、ミホ氏の精神も収まったのだと思える。

 神話や昔話には相思相愛だったはずの妻の怒りの物語がある。通常の理性では理解できないものだが、「葛の葉」や「死の棘」の経過の示唆するところでは、もと来た道をもどれと教えているのだと思えるのである。。
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