黒古一夫「作家はこのように生まれ、大きくなったー大江健三郎伝説」河出書房新社2003 は、大江健三郎のエッセイや講演、それに高校時代の同級生が蒐集していた未刊資料などに基づいて彼の著作を論じた評伝である。先に見た柴田勝二や井口時男が、大江のアイロニカルでアンヴィヴァレントな態度を測りながらの評伝と違って、大江が自身について書いたものはすべて事実であり本心であると受け止めている。したがって、まことに分かりやすいのであるが大江から軽く見られないか、人ごとながら気になる。
それでも４点ほど面白い切り口に気がついた。
�〇�実と神話
大江「私という小説家の作り方」1998 で少年時代に「奥福騒動」（天明年間に大瀬であった一揆）について旧友たちに物語っていたことを回想して、「・・・事実とはすっかり別の、それらの言葉のつむぎ出す物語、神話こそが問題であるのに、その細部をいちいちいまの現実の事実と照らし合わせてなんになる？（p32）」と書いていることを紹介し、大江は孤独な少年時代を送っていた、とする。・・・それはその通りである。しかし、ここに大江の作家としての、さらにいえばルポルタージュ作家としての態度が現れているのでないか。
ここでの態度は少年時代のことではなく、1998時点の大作家になった時のことである。沖縄やヒロシマについてもこの態度だったとみるべきで、多分、ノンフィクション・ノベルだったのだろう。
それに、神話を勝手に語れるものだと、少年時代のみならず現在でも考えているとしたら問題である。そもそも神話を研究するのは一個人の空想を研究するものではない、少なくとも一部族共通の記憶であるからこそなのだから。
�△△い泙い米�本の私
大江はノーベル賞受賞講演（1994）で、先に受賞した川端康成の「美しい日本の私」を批判して、この題は曖昧である、「美しい日本に属する私」なのか、「美しい日本と私」なのか、どっちともとれる。英語で言えばvague（ぼんやりした、漠然とした）である。対して、自身は ambiguous（多義的）だと規定している。・・・この川端批判は言いがかりであろう。
このこととは別に、黒古は、大江が1989年の大瀬中学での講演で、松山東高校で志賀直哉「暗夜行路」の読書感想文に、「志賀直哉は物事をボンヤリ書く人です」と言う趣旨のことを書いたところ、先生から志賀直哉は物事を正確に書くことで有名な人だ、もう一度考えるように言われたと語ったことを紹介している。
黒古はノーベル賞受賞講演との類似性に気がつかなかったらしい。川端が曖昧な作家と言われれば、その美意識の記述がそうなのかと納得してしまうが、大江は志賀直哉からしてあいまいだと少年時代から考えて、現在にいたっていることになる。ところが、黒古は「曖昧としか思えないような微妙な表現に生命を削るような研鑽を行う小説家＝表現者の在り方・・・（p58）」として、「曖昧」をプラス評価と捉えたらしい。見当違いと言うほかない。気の毒だが惚れ込んだ大江に揶揄されるのが関の山であろう。
�Ｃ羚颪了匐，燭舛量世襪ご磧�p141）
大江は安保条約改定反対闘争のなか、文学者訪問団（1958頃）の一員として中国を訪れ、街でみた子供について表記のような感想をもらしている。このことは、大江批判者にいろいろ揶揄されているところであるが、ここでは、大江のルポルタージュ作家としての眼力が思いこみに基づいているらしいことを確認しておきたい。
たしかこの時、毛沢東とも面会し、自身の死を語る哲人政治家として憧憬の念をもって描いていたことを思い出す。ここで黒古はとりあげていないのだが。むろん、後の文化大革命でのスターリンもヒトラーも真っ青な大虐殺のことなど知る由もない。それは分かるが、ソ連成立の後、共産革命を評価したアンドレ・ジイドが訪問し、たちまち批判派に転じたことと比べると、日本の作家は「曖昧」と言うより、見る目がないと言わねばならない。
ジイドにしてもきれいなところしか案内されなかったはずである。しかし、多分、その案内の仕方や街頭の観察で実体を見抜いたのであろう。結局、作家だけではない、京都の高僧も中国に招かれて毛沢東の国づくりを礼讃した新聞記事を書いていた。働いただけのことが形に現れる国なのだそうである。大江だけではない。信じたいものを信じる「思いこみ」の強さ。「思いこむ日本の私」のほうが似合っている。
余談であるが、同じ共産主義でもベトナムは立派だったと思う。文化大革命をまねたポルポトの国民大虐殺を侵略によって止めさせたのだから。あのとき、それでもベトナムの侵略はいかんという友人がいたが、多分彼も、「思いこむ日本」のパシフィストに違いなかった。
�っ�間の村（p191）
黒古は「僕は四国の森の中に、かつて強固であった協同体の中心をなす家系を考え、・・・村の共同体の精神を、おなじく崩壊にひんしている経済的な状況にかさね、一挙によみがえらせることをめざして、荒々しく活動する青年と思弁的なその兄を、小説の主人公に据えたのであった」との「万延元年のフットボール」の大江による動機を紹介している。
・・・ここでは、かつて「芽むしり仔撃ち」の時には否定的で恐ろしいものとして描いていた（封建的）村落協同体が復活すべきものとして捉え直されていることに注意しておきたい。むろん、長老ではなく青年をリーダーとするフットボールチームによるクーデターなのだが。だから、新しい協同体で以後、ギー兄さんの指導のもと何度も繰り返される。しかし、結局大江は協同体を、その面倒なものを知っているとも思えない。だから、何度も挫折せざるを得ないのだろう。あるべき姿がリアリティをもって描けないのである。
そして、戦う相手がスーパーマーケットの天皇といわれる在日朝鮮人なのである（p199）。なぜそういう設定にしたのか黒古にも分からないようである。「天皇」はマイナスイメージで「朝鮮人」はプラスイメージとして進歩的文化人の黒古は前提しているだろうし、当然大江もそのはずと思いこんでいる。
むろん、組織におけるボスが「・・・天皇」とあだ名されることはよくあることである。これが女性なら「女帝」、一ランク下なら「お局さま」となる。多分、これはマッカーサー、あるいはアメリカの換喩であるはずだが、朝鮮人と言う被差別者を持ってきたのは、伝統的農村において金貸しなどの成功者は「狐憑き」として協同体から差別される存在だったことを踏まえているのである。
長くなったのでここで終わりたいが、一言、なぜ「伝説」なのか？。事実を踏まえているはずなのに。結局、黒古は大江に影響され、最初の引用にあるように事実より強い「伝説」を語ったつもりなのであろう。評伝作者としては問題である。多分、真面目な黒古はここではじめて大江流のアイロニーを学び適用したに違いない。
いろいろ切り口を提供してくれる著書ではあった。
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