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2012年02月02日16:18

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映像の向こう側(11)  没落・そして自分の足で

 吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」松竹1947年 は、名門伯爵家の没落と当主を始め家族の苦しみと新しい人生を生きていこうとする姿を描いている。(nhk bsプレミアム)
 屋敷を友人新川からの借金の抵当にしている当主(滝沢修)は、これまで伯爵の立場ではかった便宜に免じて棒引きにしてくれと頼むがすげなく断られる。
 その父の友人新川を信用していない次女(原節子)は、今は運送会社の社長として成功した元使用人の運転手に買い取ってもらって、借金を返済しようと考えている。
 そして、安城家最後の舞踏会を開催する。招かれたのは華族の友人たちであるが、その中には、当主の愛人の芸者が加えてあった。次女は、全員の前で父と芸者を結婚させて、没落を受け入れられない父の生きる道を開いてやる。
 長男はピアノの名手なのであるが、遊び人で、小間使いに結婚を迫られても無視して、父の友人新川の娘と婚約している。
 長女は、華族同士で結婚していたのだが離婚して家に戻っている。この長女に元運転手が、今は華族制度はなくなったとして結婚を申し込むのだが、一言ではねつけられる。しかし、屋敷を買い取ってやけ酒に酔っぱらった元運転手が屋敷を出て浜辺に去っていくと、砂に足を取られながら後を追っていく。この辺りは、映画「モロッコ」1930年で外人部隊のゲーリー・クーパーを追って砂漠を行く踊り子マレーネ・デイートリッヒであった。
 当主は結婚はしたのだが、没落と友人の裏切りの屈辱に耐えられず自殺を図る。間一髪で止めた次女は、レコードをかけて誰もいなくなった大広間で父と踊る。それを、今日限りで去っていく家令(殿山泰司)が見つめている。そして、長男も、小間使いと一緒に生きていこうとする。
 この映画は、没落に伴ういろいろな葛藤を描いている。特に、地に落ちた・・・と思った華族のプライドなのだが、それを、時代が変わったとして処理すれば新しく出発できると言いたいようである。それはうまく描けていてハッピーエンドにほっとする。しかし、実際はそんなに甘くないだろう。散々冷たく当たってきて、なお誠実な愛で迎えてくれる、などということはあり得ないのである。その相手にもプライドがある。しかし、菊池寛「父帰る」や聖書の「放蕩息子」にはほろりとすることになっている。
 しかし、それはそれとして、下敷きにしたというチェホフ「桜の園」よりも、迫真的な気がする。まあ、ロシアの大地主というのはあまり実感がわかないから。
 それにしても、原節子。父や兄弟のプライドをいたわりながら、親戚の非難を浴びながら、もっともよい選択肢を選び、没落の痛みを最小限に抑えようとする。まことに、勝負師とはこうありたいもの。原節子が幸せになったのか、どうなったのかは描かれていない。監督吉村公三郎は忘れていたのか。まさかそうではあるまい。日本人の理想の人物に「私」はないのである。少なくとも、そのころまでは。
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