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2023年04月26日18:12

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浮世の謎(64) 読売新聞の日本史 大正デモクラシーからファシズムへ

 石ノ森章太郎の「マンガ日本の歴史」を歴史学者に解説させたような記事だった。
大正時代は1912年から26年までの短い14年で、司馬遼太郎の偉大な明治時代と滅亡と再生の昭和時代に挟まれている。
 記事にある簡単な年表では、明治の日露戦争講和に不満な人々による日比谷焼き討ち事件と幸徳秋水の大逆事件(1910年)が置かれ、第一次大戦、吉野作造の民本主義提唱、治安維持法と普通選挙法発布を主たる出来事とする。

 この記事を書いた記者は、京大の福家准教授のコメントをよりどころとしている。
 青年将校に影響を与えた北一輝や大川周明は軍国主義を象徴した人物と思われがちだが、大正期には最先端の思想家と捉えられていた。
 (北一輝「日本改造法案大綱」は1923年大正12年に改造社から出版された)
 大逆事件から10年とたたないうちに社会主義や共産主義関係の雑誌が刊行された。
 (雑誌名は書かれていないが、1919年(大正8年)に発行が開始された「改造」のこと)
 大川周明は、従来からあった中国などアジア諸国と連帯して西洋列強からアジア諸国を解放するだけでない世界的視野からイスラム圏まで含めた団結を唱えていた。
 福家准教授は大正期と軍国主義の連続性に着目して、国家総動員法も含めて大正デモクラシーから生まれたものだとする。・・・とのことである。

 この記者は、第一次大戦を年表に入れているが、レーニン・トロツキーによるロシア革命(1917-18)には触れていない。また中国での軍閥間の内戦(1918-28)や中国共産党結成(1921)にも触れない。短い記事だから仕方がないが、国内問題だけで歴史を描けないはずで、治安維持法も世界的に活動しだしたソ連共産党(日本支部)対策だったのだから。小林よしのりのいう蛸壺史観と言わざるを得ない。

 むろん、大正デモクラシーは社会主義も含めて日本へ紹介したわけだが、直接的に動かしたのは、北一輝に影響された革新将校による昭和初めの2回のクーデター事件だった。末松太平「私の昭和史」によれば、クーデターを起こしたのは、いくつもあるグループの一つにすぎないわけで、末松のグループは誰も参加していない。ただし、同調者だとして軍から追放された。それだけである。
 昭和戦前期を軍部主導政治にしたのは永田鉄山のグループだった。ただ、彼自身は2・26事件同調者に事前に暗殺されたが、永田グループの東条英機が最終的に政権を掌握した。
 で、政治と財閥の腐敗に怒る農村出身の将校たちは、新聞に煽られ、また味方につけて政党政治を貶めていたのである。政治家の中にも軍部の味方をする犬養首相もいたのだが、5・15事件で海軍将校に暗殺されてしまった。革新将校のグループは入り乱れていたわけで。
 経済的には、昭和の初め1930年の世界大恐慌の打撃が大きかった。アメリカではルーズベルトの、日本では高橋是清蔵相の積極的な財政による産業振興策が結果を出し都市ではモボ・モガ時代が続いたのだが、農村不況は長く続いた。で、軍人を出していたのは農村なのである。

 当時は農商務省の高級官僚だった岸信介も北一輝の影響を受けた。彼の場合は、計画経済の部分だったのだろう、後の満州国で成功して発展の元を作った。近衛内閣の統制経済も岸商工相が推進したことになる。
 要するに、昭和時代は戦後も含めて社会主義に対抗する統制的な経済政策をとっていたと言わざるを得ない。


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