1枚目 オペラ「花子」のポスター
2枚目 花子の死の首 国立西洋美術館
3枚目 バルザック像 深沢秋男のブログから 以上、ネットから
朝ドラ「あぐり」1997年 放映の人気で再版されたとのこと。ドラマの原作は、吉行あぐり「梅桃(ゆすらうめ)が実るとき」とのことだが、私はこの朝ドラをチラチラ見ただけだった。
吉行エイスケ(栄助) 1906-1940 ダダイストの作家
吉行(松本)あぐり(安久利) 1907-2015 美容師の草分け的存在
作品集の1作目「職業婦人気質」は、自分たち夫婦の自己紹介のような短編である。岡山で育ったエイスケはその早熟なアンファン・テリブルぶりに恐れをなした父親が17歳くらいで、父親を早く失ったあぐりと急いで結婚させた。どうしても東京へ行きたいと若夫婦で東京に来たものの、エイスケの作品は売れなかった。それでも、ダンスホールやキャバレーなど遊び歩くので、あぐりから「彼氏浮気もの」と呼ばれていた。遅く帰って来ると、「お帰り英ちゃん! 君が私を待たすなんてけしからんなあ」、などと言われるとのこと。
で、暇だし、エイスケは生活費を稼ぐことは出ないし、いつまでもエイスケのパパの世話になるわけにはいかない。それで、いいこと考えた。(丸の内で開業していた山野千枝子)の内弟子になって美容師になると宣言した。
エイスケ 「自分は良いが、パパは反対するね」
あぐり 「ママが泣いちゃう」
あぐりはどちらの親も反対するだろうことを承知の上で美容師を始めたわけである。結局、授業料や開業の費用はパパからもらったのだろう。
大正―昭和初期の楽天的なモボ・モガ夫婦だった。
この作品集の中では少し長い「バルザックの寝巻姿」が傑作だった。
物語の主人公はロダンと日本人演劇一座の座長の花子(プチット・花子)である。
オーギュスト・ロダン1840-1917
花子(本名太田ひさ)1868-1945
ロダンは当時40歳前後だった花子一座を観たのだろう。それで、どうしてもあの顔を彫刻にしたいと申し込んだが、花子は忙しいからと断った。しかし、一座の者が有名な人だからと説得して、二人の空いた時間を何度かモデルになった。
有名なのは、半眼の顔の「死の首」だが、これは演技の中での死の場面の顔である。
ロダンは小柄(身長140センチほど)で痩せているが、筋肉質で無駄のない肉体に魅せられたらしい。ヌード像はないわけだが、多分花子が断ったからだと思う。
花子の首像は50種類ぐらいあるとのことで、一人のモデルでこれだけ作った例は他にないとのこと。ロダンの執念がよく分かる。
(エイスケの小説で)モデルとしてロダンに気に入られ、仕方なく合間を見てモデルになっていた。ロダンは執念深く一座の後まで追いかけてきたが、死を前にして、花子に死の頭部像と「寝巻姿のバルザック像」を贈った。花子はそれらをもって日本へ帰ろうとするのだが、強盗にバルザック像を盗まれてしまった。犯人は博物館の職員らしく、結局パリの博物館に収蔵された。
というドタバタ・ナンセンス劇のような内容である。
これが何故ダダイズムなのか? ダダは既成の秩序や常識に対する否定や攻撃を目的とするというが、バルザック像はロダンの意図したかどうかはともかく、尊敬されるバルザック像ではない。それに、花子の死の首を並べたのは、ロートレアモンの「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘」のようだと思う。エイスケの美学だったのだろう。
吉行エイスケがロダンと花子の関係の細部までどうして知ったのかと思うが、多分、当時でも有名になっていていろいろ報道や噂話があったのではと思う。
むろん、フィクションであるから、事実でない部分ははっきりしている。「バルザック像」はパリの文芸家協会が発注したのだが、こんなふざけたバルザックはダメだということで受け取りを拒否されて、戦後までロダンの屋敷に残されていた。だから、エイスケの生きている間に再評価されて博物館に入ったことはない。
むろん、バルザック像を花子に遺贈したはずもない。
遺贈したのは、「死の首」と「福の首」の二つで、これは新潟の花子の実家にあるとのこと。
松方コレクションなどの「死の首」は、新たに石膏像から作ったものとのことである。
吉行エイスケは、作家をあきらめて株の取引を始めたのだが、結局心臓病で急死した。
この点、アンファン・テリブルだったが、早くに詩を捨ててアラビアの貿易商になったアルチュール・ランボーに似ている。早く死んだのも。
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