家康が主人公とはいえ、三河一向一揆を正面から取り上げるだけでも珍しいのに、
その布石として、一向宗がなぜ家康の家臣団も含め多くの人の心をつかんだかを、
わざわざ一話かけて描いてきました。
しかも、この「宗教と民衆」というテーマには汎用性があるだけに油断できません。
岡崎では新参の瀬名ですが、
口だけの於大の方をいなしつつ、ちゃんと登与の隣という正解の場所にいます。
そんな瀬名を三河の者たちがやさしく受け入れるのも道理で、
「ラピュタ」のシータのように男たちのプレゼントが集まり、
女たちも自然に寄ってきます。
そんな身分の隔てなく情報が廻る女たちの部屋で、一向宗の噂が持ちあがります。
「よい教え」「うちの若い子も皆通ってて」「うるさいことも言われない」
「食べ物もたんとある」「声をかける男もいる」
こんな楽しいところなら、一度は覗いてみたくなるというものです。
家康は一向宗に与えられた「不入の権」が気に食わないようですが、
当時の寺社は怖れ敬われるタテマエで俗世の外にあり、
その中立性から外交やスパイ活動を担い、隠れた軍事拠点でもあったりするので、
俗世の論理をそのまま寺社に当てはめようとする家康に家臣団も冷ややかです。
まずは確かめようと本證寺に侵入する家康の側につくのが忠勝と康政で、
最側近が数正らの守役から同世代の若者に移りつつあることがわかります。
大きな城のような寺内町は租税回避地のせいか商売が盛んで、
家臣団の中でも相当に単純そうな渡辺守綱がすでにその賑わいの中にいます。
古川琴音が演ずる歩き巫女の千代は、
アイドールというより往年の山口小夜子のような妖しさで民衆たちの心を沸き立たせ、
高揚していない方が間違っているという集団心理を作りきって空誓の説話につなぎます。
そして、この説話が、また実に巧妙でよく出来ています。
後ろから登場することで皆を驚かせ、まず卑近なネタで親近感を持たせると、
誰もが持っている子を慈しむ情、子を捨てるつらさに訴えて心をつかみ、
すべては俗世の「戦ばっかやっているあほうどものせい」で締められると、
聴衆が聞き入り空誓に心酔してしまうのもわかります。
さらに、憂い事を聞く言いつつ、悪業を持つ者も仏は救うてくれると赦しを与え、
「現世の罪は現世限り」と宣言すると民衆の熱狂は最高潮となります。
これが危うい。
かくして、豊かな者は自ら献金し、貧しき者は死をもいとわぬ強い兵となります。
それにしても、今回の一向宗の描き方ですが、
過去の戦国大河におけるキリスト教の描き方とよく似ています。
おそらく、この回のネライはそこにあるのでしょう。
きっと、このドラマの後半、もう一度この日のことが思い出されるに違いありません。
というわけで、今回の秀逸は、
「鎌倉殿」で見覚えのある水遊びの危うさでも、
「真田丸」で見覚えのある改名までの半紙の山と百姓に化ける顔のススでも、
「ひよっこ」で見覚えのある有村架純の「たぬきさんチーム」でも、
名の「家」の由来を瀬名に求めた作劇のイヤな重みでも、
この前まで足蹴にされていたのに、もう足蹴にする立場になっている出世の早い秀吉の、
「夜と言わず昼といわず」と相手の心に土足で踏み込んでくる人たらし術でも、
岡崎から南の西尾まで自ら出陣し謀反の種を先に摘み取る信長の、
ツンを維持したままの家康へのデレデレの愛情でも、
すでに歴史班が反応している、
忍び伝承のある望月千代女と似た名の「千代」の使い勝手の良さでも、
佐藤史生の「夢見る惑星」のイリスとシリンを思い起こさせつつも(誰も知らない)、
空誓の「後で来いよ」の一言だけでわかる千代とのもっと深い特別な関係でもなく、
登与の時点では城を抜け出すことに留まっていた
「三河の女は亭主の言いなりになってばかりでは」という自立心をさらにまくってきた、
「男が声をかけてくる」と聞いた瞬間に急に話に参加してきた於大の方の
「瀬名を一人前の三河の女にする務め」の意味の謎。
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