エンタメに振り切るためには、比較的よく知られた史実も覆すかと思いきや、
失敗に終わって史実に回帰するという三谷流によくある解決でした。
限られた話数の一回をこの「茶番」に使ってよいのかとも思いましたが、
むしろ、まだ人物紹介のパートなのでしょう。
「真田丸」の近藤正臣で側近・参謀・知恵者のイメージが強い本多正信も、
このドラマでは「あれはなりませぬ」「いかさま師」「口先だけ」と忌避されています。
鶏の世話(コケー!)は鷹匠伝承につながるのかもしれませんが、
むしろ弱小の松平家中がそんな雑業の者の集まりのようにも見えてきます。
嫌われているのを承知で、策は言えぬ、銭がいるではますます怪しまれるし、
銭を持ち逃げするだけと皆が口をそろえるのももっともですが、
正信がそれをサラリと言い負かしてしまうあたりが、
立派な「口先だけ」だし、十分な「いかさま師」ぶりです。
服部党に至っては、家中でも「もう、おりませぬ」とされているし、
当の半蔵も「忍び働きはやらん」「武家だ」と言うばかりです。
(明らかに銭に困っているのに)かたくなに銭を受け取ることを拒否するのは、
自分を「銭で動く」忍びのイメージで見られたくないのでしょう。
半蔵が自分の配下なのに忍びの者たちをあまり良く思わないのもわかります。
松平家中どころか半蔵自らも、
銭で動く、ケダモノのよう、盗みで食いつないだ、役立たず、悲しき奴らと散々です。
それでも、呼ばれれば集まる、命じられれば仕事はする、それが服部党です。
一方、父母を見捨てられない瀬名が両親に「奪還作戦」を話してしまい、
しぶしぶ脱出に承知した母が、その分、情報管理の重要さを理解しておらず、
悪意なくお田鶴に別れを告げることで脱出が発覚するあたりも、
偶然と必然を実に巧妙に同居させました。
後に残るのは、たくさんの遺骸だけです。
銭さえもらえば「やれと言われたことをやるだけ」の服部党の本当のところは、
簡単に命を失うにもかかわらず、それを当然とされる者たちでありました。
だから、妻や子のために銭が欲しい。
そんな配下を悼む半蔵は、ようやく頭領として目覚めたようです。
なので、「命がけで働いている者を笑うな」と、
遠く離れた岡崎から家康が叫んだことがせめてもの救いです。
兵が農民であることを意識した「田植えの始まる前に戦を始めねばならぬ」も含め、
この大河は、身分制度が固まらない中世的な世界を描く強い意志があるようです。
というわけで、今回の秀逸は、
隠居の身とはいえ、軍議の外の囲炉裏の火で温めてられている忠吉の足の裏でも、
参集の場面にメインテーマを使用するという服部党の破格の待遇でも、
「プリンセス・トヨトミ」の瓢箪(誰も知らない)以来の遠吠えで人が集まる痛快さでも、
「関口が今川に見限られている」と冷静に分析する父・氏純の惜しい人徳でも、
母は「三河の味噌は好き」と言ったが、まだ存在してなさそうな八丁味噌でも、
夜陰の奪還作戦でいかにもな忍者の姿をしているエンタメの王道な服部党でも、
さらっと紹介された鵜殿長照の二人の息子でも、
「久松源三郎」の強調から始まり「お田鶴」の強調で終わることから伺われる
徳川と武田による今川侵攻の念入り描写の予感でもなく、
なら、終盤がキツキツになることへの危惧も出てくるが、
むしろ軽くしても良いとも思う、関ヶ原や大坂の陣での松本潤の意地悪ジジイぶり。
ログインしてコメントを確認・投稿する