第2部になって、実は何かが足りないと思っておりました。
良いことにしてもつらいことにしても、たたみかけてくる史実が多すぎて、
田畑本人の軽快さとうらはらに、いささか息苦しい窮屈さを感じていたのでした。
前回から薄々感じていたのですが、今回で足りないものがはっきりしました。
それは、(ほぼ)架空の存在だが史実に拘束された主人公たちの大きな物語の外で、
主人公が見ることのできない別の物語を生きている人です。
古くは「新選組!」の捨助、近年では「真田丸」のきり、
「直虎」の龍雲丸も入れてもよいかもしれません。
第一部でいえば、美川であり、シマちゃんです。
彼らは、四三を揺さぶり、気づかせ、時に聴き役にもなってくれました。
本来なら、第2部ではマリーさんがその役回りにあたるのかもしれませんが、
ほとんど人の話を聞かない田畑の前では、いささか空回りをしておりました。
先週の美川に続いて、今回、りくちゃんが登場しました。
これだからオッサンはダメなのだと言われても甘んじて受けいれざるをえないほどに、
「シマちゃんと瓜二つの」りくちゃんの登場には感激しました。
今後、りくちゃんと小松の関係がどうなっていくかを考えるだけで希望が湧いてきます。
(その後の小松の悲劇については、すでに知っているにしても。)
それにしても、四三は、悪意がないとはいえ不用意に女性を押し倒しすぎです。
ストックホルムの弥彦も含めれば、四三の突然ハグの被害者は4人目になっています。
(りくちゃんは、りくちゃん懐妊時のシマちゃんと母子二代で被害にあっています。)
ドラマに戻りましょう。まずはIOC総会です。
どんな美化しても「戦争と平和の間にある」以上には言えない政治の問題を切り離し、
治五郎先生は愚直なまでに「平和の祭典であるオリンピックをアジアで」と主張します。
それは、ほとんど中国の委員に向かってスピーチをしているかのようです。
そして、「オリンピックは政治と切り離されるべき」という治五郎先生の理想と大義は、
中国にとって屈辱的な結果に終わった満州事変の交渉当事者という顔も持ち、
帰国すれば問題になりかねないにもかかわらず、中国の委員・王正廷の心を動かします。
それは、治五郎先生の言葉の力、人と人との信頼に基づく外交力の勝利です。
これこそが、ラトゥールが語っていたジゴロー・カノーなのです。
(たとえ、真相は「ヒトラーに感謝すべきだ」であったとしても。)
明けて翌日は、ベルリンオリンピックの開会式です。
記録映像に暗澹とした音楽を重ねたのは小ズルイとは思いましたが、まあいいでしょう。
(ここで「いだてん」のオープニングテーマが流れたら、ずいぶん印象が変わります。)
ナチスの党旗をドイツ国旗にしてしまい、それを街中で誇示するように掲げられたり、
選手村は日本人を西洋人から隔離してしまう「特別待遇」だったり、
ユダヤ人はヒトラーに過剰に同調しなければ迫害されかねない恐怖を感じるようでは、
田畑でなくても息苦しくなってしまいます。
たった4年前のロサンゼルスでは、確かにアメリカでも民族差別はあったけれど、
みんなで青空の下、カンカン帽でダンスを踊っていたのです。
田畑は「好きじゃないオリンピックもある」ということを発見したようです。
そして、マラソン日本代表「われらが」孫君の金メダル、南君の銅メダルです。
金栗足袋を履いていたとあって、金栗も含めたハリマヤは湧き上がります。
朝鮮半島出身の「日本人」の活躍を無邪気に喜ぶ心情が日本の中にある一方で、
自分たちが生まれる直前に祖国の独立を失った孫基禎と南昇竜の二人にとっては、
国旗・国歌という形で日本という「国」が表彰されることが釈然としないのでした。
そういえば、ストックホルムオリンピックの時にも、
フィンランド選手がメダルを獲得したときにロシア国旗が上がっておりました。
選手個人の力と技を純粋に競い合う平和の祭典だったはずのオリンピックは、
もともと国家という政治の呪縛から逃れられないようなひずみを抱えていたのです。
というわけで、今回の秀逸は、
中国からの一票にふさわしい日本になれるだろうかという治五郎先生の危惧でも、
記録映像とドラマが絶妙に融合されて一体感を見せた孫基禎の走りっぷりでも、
たとえ眠れないにしても、深夜まで泳ぎ続けてしまう前畑秀子の4年分の悔しさでも、
五りんの登場に、ミシンに向かう老・黒坂辛作が思わず立ててしまった聞き耳でもなく、
1936年の記念写真では撮影者だったので写りようがなかった母・りくちゃんの不在と、
顔も覚えていない父・小松のまだハリマヤになじめなかった少し緊張した顔と、
祖父・増野がやっぱり持ち続けていたシマちゃんとの結婚記念写真。
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