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2018年01月16日11:33

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時代を越えて(171) 立憲主義と国家権力の制限という論理

 最近、「立憲主義」という用語が盛んに使われている。立憲民主党という名の政党もできた。私は、政治や法律など三権は憲法に従うという理解だったので、なぜ何のために、事新しく喧伝されるのか不可解だった。
 「立憲主義」には国家権力の制限という言葉が付きまとっているが、そもそも最初の憲法とされる「マグナ・カルタ」は当時のジョン王による貴族たちの権利侵害を制限するものだった。なぜ、当たり前のことを、と思うのだが、どうやら、立憲主義者はそれ以上のことを主張したいらしい。
 それで何事も百科事典のウィキからということで調べてみた。
 で次のような説明を見つけた。

 「スターリン憲法第125条では、・・・「言論の自由を保障する」との規定を置きつつも、「ただし、働く人民の利益に合致し、社会主義制度の強化を目的とする限りにおいて」との規程が置かれており、憲法によって国家権力が制限されていない。」
ここでウィキは言論の自由が限定されてることを指摘し、その状態を国家権力が制限されていない、と説明している。
 どうやら、この論理展開に飛躍があるような気がする。ソ連の憲法はただ言論を社会主義の範囲に限定しているだけだろう。もともと、社会主義体制に反対することは反革命であり、スターリン生存中は即死刑だったのである。だから何も「国家権力が制限されていない」などと、持って回った言い方をする必要はないのである。
 まあ、それも言うなら「共産党の権力が制限されていない」とすべきだが。プロレタリアート独裁から始まって、共産党独裁、スターリン書記長独裁へと収斂され、純化されたのは周知のことであろう。

 ところで似たような規定なら日本国憲法の第十二条にある。
 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
 日本の場合、言論の自由は「公共の福祉」に限定されている。ただし、日本の場合は司法権は立法権や行政権から独立しているために、「公共の福祉」の内容は裁判所が、時代の変遷を見ながら解釈しているのである。つまり今はやり言葉の「解釈改憲」に似ているが、むろんこれは世界共通の判例主義なのである。

 では、どうして「国家権力の制限」が重視されているのか。それはもともとの憲法の目的が王権の制限にあったからである。
 しかし、今、国民が主権者となった。つまり国民の多数派が国王の地位に就いたのと同じことである。スライドさせて適用すれば、国民の多数派の権力は憲法によって制限されている、となる。むろん、国民の多数派は選挙によって交代し権力の所在は移動する。
 ということなら、常識的理解として、憲法に三権及び国民が従うということになるだろう。主権者は従わない、制限されないなどとなれば、暴動を容認するのと同じことになる。だいたい、立憲主義者といえども法律には従うべしというだろうから、その上位法の憲法に制限されないなどとあり得ないのである。もちろん、実際に被害があれば法律の条文を憲法違反として裁判は起こせる。主権者だから。
 ただし外国人などの市民には政治的権利はない。これはどこの国でも同じことである。

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