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2018年01月07日18:39

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精神の物語(45) 岡本太郎と大島渚の日本回帰

1枚目 大島渚
2枚目 岡本太郎
3枚目 山本覚馬   ネットから

 読売の日曜版に「名言巡礼」という連載記事がある。昨年の暮れには、大島渚の言葉「君たちはなぜ、怒らないのか」で、今年の初めには、岡本太郎の言葉「芸術は爆発だ!」だった。

 1、大島渚の怒り
 ただし大島渚の言葉とされるものは、二人の息子の大学教授とドキュメンタリー作家が、父の生き方を見て、ふさわしいと考えて選んだもので大島の直接の言葉ではない。
大島の映画はその都度評判になって映画雑誌などを賑わしていたが、私はまともに見たものはなかった。今、ウィキで監督映画一覧を見ても反抗的で日本社会と政治批判に満ちた社会派モノばかり、いかにも重たそうなのだ。
 記事にはテレビ・ドキュメンタリ−作品「キョート・マイ・マザーズ・プレイス」1991年(死の4年前で81歳)のナレーションを紹介している。
 「権力者にはそむかず・・・隣近所に気を使い・・・何事にも耐え忍ぶ・・・こうして美しい京都は完成した。若い私にはそれが我慢ならなかった」
 確かに生涯怒りをためていた火山のような人だったのだろう。

 ところで私も京都育ちであるが、「権力者にはそむかず」と言っても、そむく必要がなかったからだろう。応仁の乱は別として、なんといっても天子の都であり歴代の幕府も手厚くしたに違いないのである(芥川の羅生門の時代はいつのことなのか?)。おひざ元で飢え死にが出たら天皇からの直訴状が届くに違いないからである。ちょっと比較にならないかもしれないが、幕府天領が恵まれていたのと似ているのでなかろうか。
 天皇家を失った京都を再興したのは槇村、田辺知事の時代だったとするのが定説だろう。近代都市へ変貌したのは京都疎水を作り電気を引いて産業を興したからだが、京都に残らざるを得なかった会津藩砲術師範の山本覚馬と妹八重(八重の桜の新島襄夫人)の力が大きかったのではないのか。私もあの大河ドラマで覚馬の存在を初めて知ったのだが。つまり、京都上京の商人たちが気を使っただけで出来たのではない。むろん、彼らの持つ織物や工芸の技術は重要な要素だが。
 はっきり言えば、「若い私(大島渚)」が知らなかったのは仕方ないとして、晩年まで思い込んでいたのはどうなのか。
 もとより芸術家には感性が大事であり、「怒り」も重要な芸術家の姿勢でありエネルギーであることは言うまでもない。

 2.岡本太郎の縄文回帰
 さて岡本太郎であるが、彼は若い時は日本否定だった。日本史の定説では、現代の日本につながる過去とは応仁の乱以降とされている。茶道、能、歌舞伎などで、バサラ大名佐々木道誉は室町時代草創期の人だが傾奇者(かぶきもの)の初めの人でもある。
 浄土真宗、日蓮宗に禅宗系など仏教各派も出そろったし、日本伝統の工芸品も完成した時代だった。つまり、秩序の下で繊細な美意識や精巧な工芸品が、今も日本美の粋とされるものが確立したのである。これこそ岡本太郎が嫌ったものだった。少し古くなるが高村幸太郎も根付の国として嫌ったのである。
 戦後は花田清輝、埴谷雄高、安倍公房などとともにシュールリアリズムの研究会を開いていた。花田は戦前はヨーロッパ・ルネッサンスの思想家に関する評論を書いていたし、いずれも脱日本だった。
 その岡本太郎が縄文土器の美を発見したのは1951年に東博で火焔式土器を見た時だったとのことである。岡本太郎も日本に回帰したわけだが、その日本とは室町時代以降のそれではなく、はるか縄文期にワープしたのである。
 縄文人と言えば、梅原猛が宮沢賢治を評して言っていた。彼の野放図なエネルギーに満ちた詩は弥生の物ではなく縄文の感性だと言うのである。賢治の異色の詩は発表当時、作家詩人を驚かせていたし高村光太郎もいち早く私邸に賢治を招いている。賢治生前に会った文学者は光太郎だけで、光太郎も賢治を根付の国から一番遠い人と見ていたに違いない。
 ということで、岡本太郎は大島渚と違って日本への反抗を止めた。ただし回帰したのは縄文日本だったのだが。

 大島渚も一方では「私の中の多くのものが京都によって形成されたと思う。・・・私の美学・・・」と言っていたとのことであるが、京都へのアンビバレンツから逃れられることはなかったらしい。だからか。なんとなく線が細い。

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