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2017年08月13日08:24

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精神の物語(40) 湯田豊「ニーチェ 偶像の黄昏を読む」

湯田豊「ニーチェ 偶像の黄昏を読む」勁草書房1992年
著者は1931年生。神奈川大学教授(当時)、専攻は哲学、インド哲学関係著書多数。

 ここでは、本書の中核と思われる2章と3章だけを取り上げる。
 2.哲学における理性
 「感覚によって知覚されうる現象界」に対立する「イデアあるいは真実の世界」は、プラトンによれば一切の事物の真の本質として理解される。しかるにニーチェによれば、そのような存在は単なる幻影あるいはフィクションにすぎない。

 感覚がおよそ嘘をつかないということは、感覚が生成、消滅および変化(ヘラクレイトス)を示す限り、それらは嘘をつかないということを意味する。
 (逆に)西洋哲学およびインド哲学(特にヴェーダーンタ)においては永遠に変化しない究極の実在が真理であるとみなされた。

 文法は、主語および述語関係に基づいている。われわれは、このような主語=述語の関係に基づいて我々の世界を理解するのである。・・・行為者は主語であり、行為は述語である。・・・しかし、ニーチェによれば行為の除去された行為者は存在しない。・・・行為者と行為は同一であるというのがニーチェの考えである。

 真理は因習的な嘘に過ぎないとニーチェが言うとき、彼はプラトンの「イデア」、カントの「物自体」、ショーペンハウアーの「盲目的意思」、あるいは「キリスト教の神」を否定しているのである。

 この世に対するルサンチマンが「あの世」を作り出したとすれば、われわれはこのようなルサンチマンからみずからを解放しなければならないであろう。

 ☆海風:
 ニーチェは「イデア」、「物自体」、「盲目的意思」、あるいは「キリスト教の神」、「あの世」を、全部、感覚の捉えた現象へルサンチマンでありフィクションに過ぎないとしている。
 このような理解の仕方は木田元のいうところ(ハイデガー理解)と同じなのでそのまま納得できた。
 ところで仏教の「あの世」であるが、思い出したことがある。だいぶ前だが日蓮を知りたいが、本人の書いた原書はさっぱりなので、確か吉川英治の伝記小説を読んだことがある。そのなかで、日蓮は浄土教を攻撃していた。当時、その一派の浄土真宗が勢力を拡大していたこともあったのだろうが、問題にしたのは「厭離穢土・欣求浄土」のスローガンだった。
 日蓮はこの世がそんなに汚いか、そこまで憎いかと怒ったとのことである。日蓮の生まれ育った安房の国には伊勢神宮の御厨の土地があり、安房の人々はそれを誇りとしていたとのこと。したがって、天照大神の安房がそして日本が汚いはずはないという論理だった。
 そこで、成人して比叡山に入り法華経を発見した。そこでは、涅槃に入った釈迦が弟子たちにこの世を浄土にするようにと遺言していた。自分はこれで死ぬが、それは方便であって実際には別人となって別のところで布教を続ける。決して、あの世に浄土を作ろうなどとするな、何度も生き変わって布教を続けよ命じるのである。
 ということなら、日蓮とニーチェは思想が一致したことになる。ただし、ニーチェはニヒリストだったとのことだが、日蓮は釈迦(それも法華経の釈迦で、それ以外の経典はすべて否定した)の信者なのでニヒリストではない。
 ニーチェやハイデガーはナチスに利用されたが、戦前の日本では日蓮宗は軍部に共感され利用された。石原莞爾なども熱心な信者だった。ただ、誕生したばかりの創価(教育)学会は当時の政権を批判して初代会長の牧口常三郎は逮捕され、それがもとで早く死んでいる・・・とのこと。


 3.どのようにして「真実の世界」は遂に寓話になったのかーある誤謬の歴史

 1)真実の世界――賢者、信心深い人々、有徳な人々にとって到達可能――彼はその世界の中に生きている。彼がその世界である。
 (理念のもっとも古い形態、比較的に物分かりよく、単純で、説得力がある。「わたくしプラトンは真理である」という命題の書き換え)

 ニーチェによれば、堕落の歴史の最初はプラトン哲学である。世界は二つある。「感覚的な見せかけの世界(現象)」と「感覚を超えた永遠の世界(イデア)」である。賢者はイデアを眺めることができる。
 神は真理であり、真理は神的であるというプラトンの信仰はキリスト教に極めて近く、キリスト教への道を開くものであった。

 2)真実の世界――今は到達不可能、しかし賢者、信心深い人々、有徳な人々(懺悔する罪人に対して)に約束されている。
 (それはより繊細に、より陰険に、より不可解になるという理念の進歩――その理念は女になる、それはキリスト教的になる・・・)

 真理は今ここで到達されるのではなく、未来において初めて約束されるという考えは極めてキリスト教的である。しかし仏教は何ひとつ約束しないけれども、それの真理は現在において到達可能である。

 3)真実の世界――到達不可能、証明不可能、約束不可能。しかし、それは考えられただけで一つの慰め、一つの義務、一つの命令。
 (根底において古い太陽、しかし霧と懐疑を通じて見られている。理念は崇高になり、青ざめ、北方的になり、ケーニヒスベルク的(カント的)になった。)

 カントによって「物自体」と名付けられるものに関して、われわれは如何なる認識も有することができない。カントによれば、我々によって知られるのは現象だけである。
物自体を真理として想定することは許される。存在すると考えられただけで、われわれに 「一つの義務、一つの命令」を与える。カントは道徳的世界秩序の存在を信じ、それを証明しようと終生務めたのである。

 ショーペンハウアーは「カントの最大の功績は現象の物自体からの区別である」といっている。ショーペンハウアー自身の「盲目的意思」もまた究極的存在として理解されるべきであろう。しかし、プラトン、キリスト教およびカントによって代表される西洋の「二つの世界説」は誤謬以外のなにものでもない。

 4.真実の世界ーー到達不可能なのか?いずれにせよ未到達。そして未到達であるときには知られてさえいない。それゆえに、慰めず、救済せず、義務も負わせないーー知られていない何かあるものがどうしてわれわれに義務を負わせることができようか・・・
 (灰色の朝。理性の最初のあくび。実証主義の鶏鳴。)

 ニーチェは実証主義に対して批判的である。「ただ事実だけが存在すると言って現象のもとに立ち止まる実証主義に対して、いやまさに事実は存在しない。解釈だけが存在する、とわたくし(ニーチェ)は言うであろう」
 ニーチェはパークペクティズム(遠近法的思考)を唱え、ただ一つの立場のみを正しいとみなす考え方を否定した。しかし、ニーチェは科学的思考を拒絶しない。科学が事実を発見し、世界を説明しようとする限り有害とみなしたが、化石化した先入観を破壊し、新しい創造可能性をわれわれに明らかにする手段として貴重であると考えたのである。

 5.真実の世界ーーもはや何の役にも立たない、もはや義務さえ負わせないある理念、役に立たず、過剰になったある理念、それゆえに反駁されているある理念ーーわれわれはそれを廃止しよう。
 (明るい昼間。朝食。良識と快活の帰還。プラトンの赤面。すべての自由な精神の大騒ぎ。)

 ヘーゲルは言う。「哲学がそれ(生命)の灰色を灰色に描くとき、生命の形態はすでに古くなっている。灰色をしている灰色によってはそれを若返らせることはできず、ただ認識され得るだけである。ミネルヴァの梟は迫りつつある黄昏と共にようやく飛び立つ。」

 6.われわれは真実の世界を廃止してしまった。どんな世界が残されていたのか? おそらく見せかけの世界か?・・・しかし、そうではない。真実の世界と共にわれわれは見せかけの世界をも廃止してしまったのだ。
 (正午。もっとも短い影の瞬間。もっとも長い誤謬の終わり。人類のクライマックス。ここでツァラトゥストラが始まる。)

 現実に対する形而上学のルサンチマン。・・・生の本能でなく、生の倦怠の本能が、他の世界を創造したのである。

 ニーチェは変化及び生成によって特徴づけられる世界は(真実の世界と違って)現実的である。
 「真実の世界は存在しないゆえ、あらゆる信仰・真実は必然的に虚偽である」というのがニヒリズムの見解である。ニーチェはニヒリストであったが、彼の哲学はニヒリズムへの反対運動として理解されるべきである。

 最高の価値は今や現実の生活、自然そのものである。そして、それは永遠に回帰しつつあるのである。
 ニーチェは能動的ニヒリズム(ヨーロッパ仏教)を提唱した。それは力への意志を実現するものであり、そのもっとも重要な原理が永遠の回帰の学説である。

 ☆海風:
 ここでは、形而上学の歴史が簡潔に整理されている。
 「現象とイデアの二つの世界」の認識枠組みから始まり、イデア(信仰)への懐疑、実証主義の発展からニヒリズムへ至る、として説明されている。

 「仏教は何ひとつ約束しないけれども、それの真理は現在において到達可能である」としているが、ここで言う仏教は釈迦本人の言葉に近いとされる「スッタニパータ」など上座部(小乗)仏教であって、キリスト教の影響を受けているとされる大衆部(大乗)仏教のことではない。つまり、日本の仏教は本来の仏教ではない。これも極楽浄土などあの世の約束で満ちている。

 ニーチェのキーワードの一つ「永遠に回帰する」であるが、これはキリスト教の言う「永遠の今 エターナル・ナウ」に対立するものとして発想したのではなかろうか。永遠の今とは静止した世界であろう。ゲーテも「止まれ。この世は美しい」という。
 しかし、ニーチェの世界は生成し回帰する。つまり、これは季節の循環を表しているとみてよいのではなかろうか。古代人は(四季のある中緯度以北)春を喜びと共に迎える。
「俳句」は、常に季節を意識せよ、美意識も人間関係も季節の中で捉えよと要請する。永遠に回帰する季節が主役なのである。・・・とみれば、何も、難解でありがたくも大げさな言葉ではなかった。

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