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2015年01月18日13:23

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時代を越えて(57) 「三島由紀夫と戦後 中央公論特別編集」2010(1)

 1.対談:三島由紀夫を読み直す(三浦雅士、平野啓一郎)

 三浦:僕も「仮面の告白」「金閣寺」「鏡子の家」は歴然と連続している作品だと思います。でも金閣が天皇のメタファであるということに、あの段階の三島は自分では気づいていなかったと思う。p39
 ・・・後の関川は、「告白」と「金閣寺」の間に断絶をみているのだが。私にも関川と同じに見える。

 三浦:個人の倫理と社会の倫理の根拠は・・・近代の政教分離以降に乖離し始めた。・・・それが主体性問題です。左翼はそれを階級意識の主体化で、右翼は伝統意識の主体化で乗り越えようとした。「金閣寺」はその問題を見事に図式化している。p40
 平野:三島の場合、敗戦の時までは彼の中に金閣のような絶対的存在と自分との一体化がありましたが、戦後になるとそれが次第に乖離し始める。・・・小説の中で旧秩序の象徴である金閣を燃やして、新しい戦後という社会で生きようという選択をしたわけです。p40-41
 三浦:平野さんも言われたように、「金閣寺」や「鏡子の家」は戦後の社会を生きようと思いながら書いた作品ですね。小林秀雄が主人公をなぜ殺さなかったのかと「金閣寺」に違和感を表明しています。p41
 ・・・戦後を生きるために焼いた。「告白」でも白けた戦後を生きる予感を、水溜りの反射にみていたが。これと、同じ三浦の次の言葉とどうつながるのか?
 
 三浦:保田は、日本人はとうとうと流れる伝統に同一化することができるということでその矛盾(社会と個人の規範の矛盾)を非常に鮮やかに解消しようとした。・・・三島は「金閣寺」で保田の論理をより尖鋭にしたわけですね。p41
 ・・・伝統に同一化するためには現実(薄汚れた金閣)は邪魔だった。ネロ帝がスラム街を汚いと言って焼き払ったのと同じ心理なのか? 

 平野:戦後、三島は大義がないとくり返し言っています。共同体に、個人が生きるための根拠がない。p41
 三島:イスラム原理主義者は狂信的だと、人はまるで当然のように言いますが、・・・彼らはイスラムの絶対性を言い、政教を分離してはいけないと主張する。三島も・・・天皇を擁護したとすれば、彼の作品や生き方というのは今の時代こそ参照すべきだと思います。p44
 ・・・イスラム原理主義を三島からとらえよと? 

 平野:アーレントは「全体主義の起源」でナショナリズムがそのまま帝国主義に繋がったのではなく、帝国主義が採用した膨張政策とナショナリズムは価値観が異なるし、むしろ国際的な膨張やインターナショナリズムに唯一対抗する価値観がナショナリズムだったと、かなり強調しています。p46
 ・・・確かに、民族の地を離れれば、また、植民地から別の文化の人々を受け入れれば国粋の美は純粋なものでなくなる。保守派は反対するはずである。だから、それを主導した担い手を、革新官僚とか革新将校というのだろう。

 三浦:そもそも大義はフェイクでしかありえない。それを真正面から扱ったのが「金閣寺」ですね。p50
 ・・・身もふたもないが。しかし、それぞれの思いを思想的にまた政治的に統合してゆくと、「大義」になるのである。

 三浦:無名の一人として死ぬのはいやなんです。あくまでも三島由紀夫として死にたい。主義よりもその思いの方が強い。愛国主義や右翼イデオロギーにコミットできる資質を持ち、おそらくお父さんとの関係でその立場にあったのは、むしろ大江健三郎さんの方ではなかったのでしょうか。p51
 ・・・大江「水死」などに登場する国粋主義者だった「父」はフィクションだと、大江家は藩政期には武士だったが、明治維新以後、大瀬に引きこもって和紙の紙すき業をはじめたと思っていたが、本当に、小説の通りに国粋主義の塾を開いていたのか? とすれば、大江の過激なほどの日本政治反動化への恐れは、自身の国粋主義化への恐れに原因があることになる。

 平野:芥川は欲望でも何でもすぐに懐疑するから、彼が長編小説が書けなかったことはよくわかります。p52
 ・・・芥川評として納得。

2.インタビュー 「三島という大きな謎」松浦寿輝
 松浦:日本浪漫派っていうのは、ナショナルな文化の連続性を天皇主義の伝統に見るわけで、その天皇自体が、象徴天皇になってしまった戦後日本で、三島ひとりが、日本浪漫派の末子としてずいぶん無理なことを体を張ってやっていた。p62

 −三島の生き方は、日本の戦中・戦後史の体験によるものなのでしょうか。
 松浦:むしろ生い立ちでしょう。たしか吉本隆明さんが、生きながら死んでいるような人だった、すぐ自殺しなかったのがむしろ不思議だといったことを書いているはずです。p63

 3.「「社会派」作家 三島由紀夫の1963年」関川夏央
 「「仮面の告白」で世に出た三島だが、むしろその本領は「愛の渇き」「青の時代」「金閣寺」などの事件小説にあった。1959年(三島38歳)の大作「鏡子の家」で、事件小説は社会小説へとはっきり発展した。」
 ・・・(後は要約)その後59年四月の都知事選に取材した「宴のあと」書いて、モデルになった有田八郎(プライバシー裁判)に告訴された。63年には近江絹糸の大ストライキを描く「絹と明察」を書き始めたが、これも批評家には不評で、これを最後に社会派たることをあきらめた。
このような心労の中で、中央公論社が63年に企画した全集「日本の文学」に、「社会派」とされる松本清張を入れるとする方針に絶対反対の態度を貫いてあきらめさせている。社会派ではなくただ官僚の堕落を指摘しただけだし、「日本の黒い霧」は荒唐無稽の陰謀史観だと主張したとのことである。
 ・・・つまり、関川は、三島が1970年11月に壮絶な自死を遂げることになった契機の一つが、「社会派」をあきらめた1963年夏にあったとしている。戦後社会を全体として描くことを意図した「社会派」小説が評価されていれば、日本浪漫派を実践することはなかったに違いないというのである。
なるほどとも思えるが、しかし、三島の理想の方向へ社会が変わって行かなければ(そして変わっていないし)、いずれ絶望して行動に走ったと思える。ボデイビルを始めたのが、すでに1955年だとのことで、以後、ボクシング、水泳、剣道、居合、レンジャー訓練、空手へと続いたが、スポーツはなんであれ不器用の一語だったとのこと。いずれその恥も実践ではらしたくなったに違いない。

 4.特別インタビュー「三島さん、懐かしい人」石原慎太郎
 「最後の大作「豊饒の海」(1965-70)は、誰も批判しないけど、冗漫で、文体もだらけていて、退屈な小説ですよ」p76
 「三島さんは東京ではなくてわざわざ田舎で(本籍地の兵庫県)徴兵検査を受けて、第二乙種合格になる。実質的に兵役を拒否して逃げ回った。・・・三島さんには実質的な兵役拒否に対する原罪感があったんじゃないかと思う」p77
 ・・・「告白」や「思春期」では医者の誤診としていたが、それでも、結核でないと分かった段階で申請すればよかったわけだ。石原の言うように、実質的兵役拒否か。当時、いろいろ工作して病気になった人もいたという氏。

 三島邸のハウスウォーミングのパーティに招かれた時の感想
 「ヴィクトリア朝のコロニアル様式か何か知らないけど、あんな見るにつらい、バカバカしい家はないよ。・・・三島さんは自分の家のことを「インチキを本物らしく見せる」なんて書いていたらしいけど、あの家が三島さんだった、そんな感じがするね。あの人の肉体も同じだった。・・・三島さんは、本当は天皇を崇拝していなかったと思うね。自分を核に据えた一つの虚構の世界を築いていたから、天皇もそのための小道具でしかなかった。」p81
 ・・・石原はさめた人のようで。三島は意思と才能による人工の人だったのか。

 三島由紀夫「文化防衛論」に関するものは次回で。

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