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2014年12月24日22:07

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時代を越えて(51) 内田樹「レヴィナスと愛の現象学」(1)

 内田樹「レヴィナスと愛の現象学」文春文庫2011(単行本 せりか書房2001)を図書館から借りてきて、やっと半分(第1章 他者と主体、第2章 非―観想的現象学)まで読んだ。後、第3章 愛の現象学があるが、とりあえずここまでを纏めて置く。付箋もなくなったし。

 1章 他者と主体
 「タルムードは書物としてだけでは成り立たない。凍結された教えを解凍して、本来の生命を賦活させるためには、それを対話と論争の状態に戻してやる必要がある。だから、ひとり黙読するものにとって、タルムードは死んだ書物のままなのである」p42
 ・・・まことに新鮮な言葉だった。対話と論争がなければ聖書(タルムード)はよみがえらない。その対話の記録も含めてタルムードだということで、タルムードは旧約部分も増殖してゆくらしい。
 キリスト教の場合、ルターがドイツ語訳にして読めるようにしたのだが、論争せよとは言わなかった。

 「テクストの解釈は主観的な独創性に無限に開かれている。しかし、そこで解釈を許されるにはたった一つの条件がある。それはテクストの読みを教える師を持つことであって、・・・」p43
 ・・・資格を持った師との公式の論争が記録されるということだろう。

 「タルムードにおいては、ラビたちが口にしたすべての異論は併記される。・・・めざされているのは、ラビたちの合意による議論の終結ではなく、豊かな異論の湧出による議論の継続である。というのは、ラビたち一人一人が、それぞれにユニークな仕方で啓示を聴き取っているからだ。」p65
 ・・・ソクラテス・プラトンの対話編を思い出す。違うのは結論を求めないことか?

 エリ・ヴィーゼルとレヴィナスは同じくシシャーニュ師の弟子だった。ヴィーゼルが師の言葉を記録している。
 「美しい答えなど・・・まやかし以外のなにものでもないんだぞ。人間の中身が定められるのは、彼を不安にさせるものによってであって、彼を安心させるものではないのだ。」p68
 ・・・この言葉も新鮮。宗教とは安心立命の境地を得るためのものだと思っていた。確かに、些細なことに不安になるようではだめで(ここは仏教も一緒)、偉大なものに対してなのだろうが。映画「恐怖の報酬」の意味も考え直さなくては。

 「謎を解くためでなく、謎を深めるためのエクリチュール。このアイディアはロラン・バルトが多声的、多起源的なエクリチュールと呼んだものに少し似ている。」p68
 ・・・ゲーテ「ファウスト」では、王様がメフィストフェレスの言葉が二重に聞こえる、信用ならないと疑う場面があった。確かに、多声的などと言われても現実の人間関係では通用しない。しかし、ミクロの世界が粒子であると同時に波であるもので成り立っているのと同じことが起きているのかもしれない。

 「他者というレヴィナスの概念がきわめて難解であり、一義的な定義になじまないことは多くの人の指摘する通りである。・・・他者が、そのつど私と同時に新たに生起する、ということにかかわっている。私と他者は、あらかじめ独立した二項として、自存的に対峙しているのではなく、出来事のうちで、出来事として同時的に生成する。」p83
 ・・・だから、そんな人間だったと思わなかったという事態が起きるのか。その時は、私も、かっての私ではない。

 「私」には二つある。
 「第一の「私」、全体性を志向する私は、術語的には自己(Soi)と呼ばれる。自己は二つの矛盾した特性を併せ持っている。おのれを中心とした支配権を拡大したいという志向と、絶えず運動し続けたいという志向であり、オデュッセウスになぞらえられる。」p84
 「自己同一性とは他の何ものにも根拠づけられるまでもなく自己同定する能力のことである。・・・帝国主義的自己は、流動的で、冒険的で、英雄的形姿をもって出現する」p86

 「かかる自己的な主体とはまったく別なものとして、無限を志向する私(アブラハム)が構想される。・・・アブラハム的主体が出会うのは「他なるもの」でなく、「絶対的に他なるもの、すなわち他者である」p87-89」
 ・・・つまり、「オデュッセウス」的主体は、出来事に巻き込まれる、巻き込まれないは自己決定できるのだが、アブラハム的主体の場合は選択の自由はないのである。誰でも、(状況に応じて?)この両方の主体であらねばならない、ということだろう。

 第2章 非―観想的現象学
 「レヴィナスの思考のきわだった特徴は、一つの定式が提示されるや否や、ただちにそれに異を唱える別の言葉が湧出するという前言撤回の無窮の運動性のうちにある。みずみずしく生成的であった思考が、堅固で一義的な言葉の枠組みのうちに固着し、惰性化することを・・・脅迫的に回避しようとする。思考をたえず星雲状態においておきたいという願い・・・」p103
 ・・・この状態をイロニイといったのでなかろうか。行動へつながる決定ができない状態。だから、サルトル「汚れた手」の秘書は、妻の浮気を疑っていきなり尊敬する書記長暗殺という飛躍(投企)をしたのだろう。私も、イロニイの不決断では思い当たるが、良い意味もあったのか。

 「レヴィナスにとって、批判することは、対話することと同義である。パリサイ人レヴィナスが求めているのは終わりなき対話である。」p105
 ・・・パリサイ派はイエスと対立して裁判に訴えたのだが、レヴィナスに結審はない。とすれば、カフカ「審判」が決心して処刑を執行したのはユダヤ的ではなかった?

 「フッサールはこのデカルトの基礎的知見(コギト)を「あらゆる意識はなにものかについての意識である」という言葉に言い換えて、さらなる一歩を進めることになる。」p111
 「実在であれ仮象であれ、私に対する現象はたしかに私にとって存在する。それが実在するのか仮象にすぎないのかについての議論はとりあえず棚に上げ(カッコにくくる?)しておいて、私に対する現象が私にとってどんなふうに現出しているのか、その現れ方の様態や、構造や、法則性について考えてみよう、とするのが現象学の立場である。」p115
 ・・・木田元「反哲学入門」でいっていたイデアの世界から、影の世界(現象)への主題の転換のことだと思う。

 「素朴実在論者は夢中になって舞台を見ている観客に似ている
  一方、懐疑論者はしらけた観客に似ている。
  現象学者は演出家である。・・・すぐれた演出家には、覚めていると同時に没入していることが必要となる」p118
 ・・・ここまでは分かる。

 「ありえない唯一の真理の範型を空想する(つまりイデア?)ことよりも・・・人間の知性の活動がどのように、不確実であり不十分であるかを確実で十分な語法で語りえるとしたら、それは人間知性の堅牢な基礎と成りうるだろう。」p130

 「レヴィナスはラビたちの共同作業によるタルムードの成立過程と同じことが現象学においても行われるべきだと考えたのである」p132
  ・・・しかし、フッサールは真理を述べるだけで、共同作業をする気はなかったとのことである。

 「複数の人間が同一の対象を見ているとき、その見え方は一人一人違うにもかかわらず、私たちは同一の対象を見ていることを確信している。それが確信できるのは、私たちが同一対象を間主観的な仕方で構成しているからである。」p134
 「ひとはいかにしておのれ自身の外へ出て、他者に出会うことができるのか」p135
 ・・・間主観的?・・・他人がいると意識して、気を使って、相手の立場も想定して、政治と宗教の話題は避けて・・・それが間主観的になるということか。あまり気を使うとくたびれるのだが。

 「志向性という働きは、単に「表象する思惟」と「観想される対象」の間のみに生起する(フッサールの立場・・・つまり観想できる事物)事況ではない。
 「表象しない思惟」と「観想されない対象」のあいだに生起する志向性の経験もあるはず(こちらがレヴィナスの立場・・・つまり非―観想的な書物や愛される人)」p147
 「非分節的な対象、包摂しえぬ対象(つまり、書物や愛する人)との、生き生きした交わりは見ることでなく、聞き語りかけることによってはじめて成就する。この確信を基礎づけているのは、疑いもなくユダヤ教である。」p161
 ・・・つまり、レヴィナスはフッサール現象学を拡張したのである。

 ・・・ということで、もうくたびれたので、全体の感想に移りたい。
「我思う故に我あり」や「唯我独尊」が平等な他人(我と同じレベルで思っているかどうかわからない)に出会うことができるのは、自己と同時に他者が生起し、間主観性もその時に与えられているからなのだろう。
 この他者は、サルトル流だと地獄の目で(後ろ暗い)私を見透かすのだが、対話することにより間主観性が動き出し、一方的な目にさらされなくなるのに違いない。二人の沈黙はそれぞれの地獄で、沈黙は金が成立するのは多数の間の討論ならぬ闘論の中での聞き役、清涼剤の役という特異点の場合に限られる。

 ギリシャの対話哲学者を処刑したのはソフィストだった。彼らは政治家であり、裁判官、弁護士であったのだから対話が商売だったのに、なぜ、ソクラテスを憎んだのか。ソフィストの場合は決心し、結審しなければ仕事は終わらない。しかしイロニイの人ソクラテスは結論を出す必要はなかった。ふざけやがって・・・・。
 ユダヤ社会ではソフィストはパリサイ派だったのだろうが、なぜ、イエスを敵視したのだろうか。イエスから非難されていることを、つまり地獄の目で見透かされていることに耐えられなくなったのだろうか。それとも、対話としてでなく、預言者のごとく語ったからか? いささか、感傷的な観想になってしまった。

 ユダヤ・キリスト教とは言うが、タルムードがラビたちの対話の中で増殖するものなら、キリスト教とは大いに様子が異なる。キリスト教徒にとって神父・牧師から説教を聞き、さらに自分で聖書を読むことが重要で、聖書の字句を議論することではなかった。
 「不合理ゆえに我信ず」は埴谷雄高の言葉だが、そのもとはウィキによれば2世紀の神学者テリトゥリアヌス「不条理ゆえに我信ず」だとのことである。ということは、キリスト教はタルムード的ではないということだった。ラビたちは不合理だとか不条理だとか言って考えること、対話することを止めないらしいから。
 「不合理ゆえに我信ず」これこそ、日本ロマン派の信仰だったのかもしれない。


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