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2014年12月01日13:48

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ファンタジーの中へ(47) 井上寿彦「賢治、「赤い鳥」への挑戦」

 井上寿彦「賢治、「赤い鳥」への挑戦」菁柿堂2005 を図書館から借りだした。賢治については、このミクシイ日記の最初から何度かのシリーズで取り上げて来た思い入れの強いテーマである。主なものは以下の日記に始まる三つのシリーズであった。
「賢治ととし子(1)」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1615144117&owner_id=34218852
「賢治の動機(1)」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1651024999&owner_id=34218852
「賢治論散歩(1)」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1862695463&owner_id=34218852 

 その中で、やはり何故童話を書き始めたのかが謎として残っていたが、井上の著書で、「赤い鳥」の発行をみて、童話作家になれるし、なる、と決心し、職業(天職)として選んだもので、そのために盛岡高等農林の教授から大学に残って欲しいという要請を断ったのだというのである。
 確かに、何になるのか決まらないのに、大学教授への道を断ると言うのは不可解だった(実験が下手だとか、上の空になるとか弁解していたが)。
 そして、鬱々と質屋の店番をしつつ、父を日蓮宗に改宗させようとして行き詰まり、東京の日蓮宗団体「国柱会」へと家出するのだが、定説では、国柱会の幹部に会って童話を書くように勧められたことになっている。ところが、その幹部は一般論として言っただけだったと後に回想している。
 著者によれば、大正7年から賢治が何度も「赤い鳥」に投稿していたのが、一向に採用されないので直接問い合わせるために大正10年に家出・出京したのであって、そのことを言わなかったのは父が絶対反対するからだったのでないかと推測している。
 すべては、著者の推測なのだが、裏付けとして、賢治の初期に書いたと推定される童話が短い事を挙げている。これらの枚数は「赤い鳥」の制限枚数だったというのである。対して、賢治の代表作となる童話はほとんど制限枚数を超えている、賢治は無理をして短く書いたのでないかというわけである。
 それに、編集の鈴木三重吉が、日常的な子供の生活を書くこと、アンデルセンやグリムの真似はだめだとの指針を出しているのだが、なにしろ賢治のはバタ臭いのである。誰の回想だったか(調べてないので)、賢治が「赤い鳥」に童話「タネリは確かに一日噛んでいたようだった」を投稿したが、三重吉は「俺はこう見えても愛国者なんだ」といって没にしたというエピソードがあった。この童話は少年の日常を描いたもので、その点では三重吉基準に適合しているはずだが、いかんせん、どこの国の日常とも分からない話で、奇をてらったと感じたのかもしれない。
 ただし、著者はこのエピソードは取り上げていない。それに「タネリ」も初期作品でないからか、一覧表にも入っていなかった。

 著者は、これまでの賢治論のように関係者の回想を使わないとする。なぜなら、記憶違いがあって、相互に矛盾するものもあるからという。確かに、回想録が作られ始めたのは、賢治死後に、有名になってからなので、記憶もあいまいになるだろう。例えば、とし子の発病後賢治が東京から帰った月日、これは8月か9月かという程度だが、その後とし子がどこで療養していたのかが分からない。私は、賢治が帰った時から別宅で看護婦と賢治がついていた1年4カ月と思うのだが、別に、翌年の夏から亡くなるまでの4カ月ほどとの説、さらに、本宅と別宅を行ったり来たりしていたという説など、家族の回想があいまいだからそうなってしまうのである。

 賢治は「赤い鳥」への投稿を以て童話作家になろうとしていた、これで社会貢献をしようとしていたという著者の仮説にもとづけば、賢治の行動に整合性が見えてくるように思われる。
 それでは、これまで賢治の家出が、父が宮沢家代々の浄土真宗から日蓮宗に転宗してくれないからだと、また、親友の保坂嘉内にも転宗を説得するためだとされていたこととの整合性はどうなるのか。この点、私には簡単に解けると思われる。とし子の亡くなった「永訣の日」に、賢治は妹に付きっきりだったのでなく、花巻駅を通過して盛岡に向かう国柱会幹部の歓送迎に出かけているのである。こんなことだから、詩の上だけで、本心では何とも思っていなかったなどと中傷されたのだろうが。しかし、そう思ってしまうのは信仰がないからであって、賢治は法華経信仰の力で、その心で、奇跡的回復を願ったのだと思う。
 大正10年の家出のときも、童話作家として信仰を広めるためであった。だから、父を親友を転宗させられれば、自身の信仰も本物だと証明でき、童話も法華経の広宣流布に役立ち、したがって童話が受け入れられる・・・という信念だったはずであろう。
 賢治の行動の整合性は信仰をはずしては理解できなくなる。この著書も重要な説だと思うが、信仰については何も触れてはいなかった。

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