私は池田信夫のブログを読んでいるが、今日は標記の題であった。これはアドルノの言葉だそうで、恐るべきはヒトラーの狂気ではなく、ドイツ人がユダヤ人を合理的虐殺したことにある。「・・・自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている限り、批判的精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできないのである。(アドルノ『プリズメン』)」というように続くとのことだから、詩を書くことは「自己満足的な観照」だというのであろう。
アドルノについては名前を聞いただけで何も言うことができない。しかし、このフレーズは何度も聞いたことがある。学生時代らしいから戦前だが、サルトルと友の会話で、セーヌ川に映える建物の明かりの夜景が美しい、といった友に対して、あれは工場で、中には女工たちが夜も働かされている、それを知ってなお美しいというか、と大論争になったとボーボワールが書いていた。
これも戦前だが、中野重治の詩「お前はもう赤まんまの歌を歌うな」も似たような心に違いない。
学生の頃読んだ、羽仁五郎「都市の論理」だったと思うが、広島の原爆を基盤に置かない思想は偽物である、という趣旨のことを言っていた。
だから、私はやれやれまたかと思ってしまうのである。
多分、これも学生の頃だと思うが「ギリシャ人は神話を信じたか」という魅力的な題名の本があった。法政大学の赤本だったので書店でぱらぱらめくっただけだった。そういう風に聞かれたら、私は、もちろん信じた。ソクラテスも神殿の託宣を信じたはずだし、と答えるところだ。つまり、人間は多面的であり、ピカソの絵のように同時にいくつもの顔がある。きっとニーチェの権力への意思も多面的であったに違いない。そもそも、人間の精神は合理的に統合されているはずがない。
古今集仮名序にあるように、歌は鬼神をも泣かせるものであって、権力に歯止めをかける作用があるとされている。広く、美意識も同じだろう。いちいち社会的背景を知らなければ美しいかどうか判断できない、などとなればSFの全体主義国家になってしまう。
貫之なら、歌が足りないからアウシュビッツになったと言うのでないのか。
などといえば、ゲーテもベートーベンもいた。だからアンネの父はドイツ人を信じていた。それはどうする、というような矛盾はある。フランスでも血塗られたB級ホラーのようなギロチンがあったし、魔女裁判の火祭りも盛んだった。
それでも、歌が足りないと言うべきで、合理性に対抗できるのは感情・情操なしかないのでないかと思う。
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