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2013年10月10日12:30

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時代を越えて(10) 敗者の歴史

 大河ドラマの「八重の桜」の関連で歴史読本7月号は山本覚馬の特集だった。会津の砲術家として江戸に派遣され佐久間象山や江川英龍に砲術を学ぶとともに、横井少楠、勝海舟、吉田松陰や勝海舟と親しく交わり、京都守護職となった松平容保に従って京都に行ったときにも、西周に影響を受けたという。
 だいたい、この頃の洋学思想に向かう青年はほとんど、佐久間と横井に弟子入りしていて、維新に活躍した開明思想の持ち主は皆友人だったらしい。
 
 山本覚馬は京都で失明しそのため藩主とともに会津に帰らず、薩摩藩にとらわれの身となった。その牢獄で書いて薩摩藩主に提出した建白書が、王政復古後の政権構想と政策提案であったことから、西郷隆盛や木戸孝允に認められ維新後に、京都府顧問に採用されることになった。

 ということで、京都の会津といえば松平容保と新撰組しか知らず、彼らの退去後は全く関係ないと思っていたのであるが、失明の身で京都の有力者たちの教育者となり、槙村知事の顧問として京都の近代化を推進していた。京都の産業近代化の中心になったのが京都で毎年開催することになった博覧会だとのことである。

 敗者のその後というテーマは時々みかけるのだが、今、積読本を探しても見当たらない。ただ、漠然と思っていたのは、敗者といえどもまったく滅亡したわけではなく、かれらの逃亡先でそれなりの活躍があり、地方史に影響を与えているはずだとのイメージである。
 しかし、山本覚馬の事績を見ると、歴史の傍流ではなく明治の殖産興業を先導していたようなのである。坂本竜馬が生きていれば、彼は政府に参画しないとのことだったので、覚馬のようなことをしていたのではなかろうか。竜馬の場合は世界貿易かもしれないが、それにしても産業を起こさねば売る品物もないわけだから。

 敗者の歴史に注目したのは、昔、盛岡にいた時に山形県酒田市などへ観光に行ったときである。酒田といえば「本間様には及びもないが・・・」ぐらいしか知らなかったが、いや、「おしん」の後だったか、その程度だったのだが、酒田市の基礎を作ったのは奥州藤原氏の滅亡後、主君の伯母を奉じて平泉を脱出した36人の武士団だったとの説明を、その主君の叔母の寺の案内板で見たことである。
 藤原氏はただ滅亡しただけではなかったわけだ。この36人衆は商人となり、江戸時代には北前船を使って大阪との交易で発展したという。おしんの奉公先もその一つに設定されていた。このレベルでは地方史での活躍であるが、考えてみれば北前船で栄えたのは相手の大阪もそうだったわけだ。豊臣氏滅亡後の大阪が天下の台所になれたのは北前船交易のためであり、その出発点が酒田だったわけである。

 しかし、敗者の歴史が歴史書の主流になることはなかった。教科書にいろいろ書かれても覚えられない。定説はコンパクトでよい。明治の発展は明治政府による殖産興業政策だけで良いのであろう。・・・いつまででもこれでは困るのだが。郷土史を日本史に入れて、歴史を豊富なものにしていかねばならない。勝者の歴史だけでは、歴史に学んで先を読むのに不十分である。

 
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