書評でほめてあったので買った本。
本屋で見つけていったんは手に取ったが、「愛国」という言葉が刺激的で棚に戻した。
「ナショナリズム」の方が買いやすいのではないかと個人的には思うのだが、
著者や出版社としては、「愛国」の方が売れると踏んだのだろう。
このあたりが、「今の時代」ということなのだろうか。
さて、この本、「愛国」と言うほどには愛国的なものではなく、
また、「ラーメン」だけを語っている本でもない。
(国内のいろんな場所に「ラーメン前史」と呼ぶべきものはあるにしても、)
戦後日本に生まれ、半世紀ほどの間に「国民食」と呼ばれるまでになった
ラーメンの勃興と変遷をを通して、日本の戦後を描いている。
例えば、本書の前半を飾るラーメン側のヒーローが
チキンラーメンとカップヌードルの安藤百福であるのに対して、
時代を象徴するものとして、アメリカの大量生産の原動力であったT型フォうードと、
戦後日本に大量生産を伝道した経営学者デミングを対峙させる。
また、どう遡っても50年以上の歴史を持たないはずの全国の「ご当地ラーメン」を
その地の歴史と文化を受け継ぐ郷土料理になぞらえることを「偽史」と断罪しつつ、
それが、日本列島改造論から始まる「地方の時代」から生まれたものであり、
また、それが結果的にもたらされた画一化した地方の風景の一つとする。
そして、この本の何よりの発見は、ラーメン店の「国粋化」である。
店主は伝統工芸の職人に自らの「ロールモデル」を見出したのか作務衣姿となり、
店内に(著者が「ラーメンポエム」と呼ぶ)宣言文を店内に飾る。
内装や器からは中華を思わせるものが消え、店名も「麺屋」「麺家」などと名乗る。
著者は、こうした傾向を、大澤真幸や浅田彰を引用しながら、
冷戦後の国民国家からグローパリズムへという流れの中から生まれた
全世界的な表層的なナショナリズムの一つとしてとらえる。
戦後の闇市から始まる60年ほどの歴史しかないラーメンが国民食と呼ばれるようになり、
ご当地ラーメンが郷土料理的にとらえられること自体が表層的であることを思えば、
ラーメンが表層的ナショナリズムを体現するのも、いかにもラーメンらしいと言える。
著者自身も書いているように、この本は、
「ラーメンの歴史そのものに何か新しい項目を付け加えたりする」ものではない。
むしろ、「戦後復興と大量生産−地方の時代−表層的ナショナリズム」という
日本の戦後史を振り返ると、
そこには時代の象徴としてラーメンの姿が必ずあり、
日本の戦後史の中でラーメンが時代とともに変容しながら、
国民に定着していった過程を描いている。
したがって、この本はラーメンの歴史のフリをした日本戦後史の本なのである。
ログインしてコメントを確認・投稿する