古本屋で見つけた。
一時期、毎月「将棋世界」を読んでいたことがある。
見る将棋ファンとして、新聞の将棋欄を見ているだけで飽き足らず、
もっといろんな情報がほしくて、図書館などで読んでいたのだ。
そのころ、気になる連載があった。
すでに引退していた木村義徳八段が、将棋のルーツを探るもので、
特に、日本将棋独特のルールである「持駒使用」について研究しているものだった。
当時の表題も「持駒使用の謎」だったはずで、
まえがきには、「1997年6月号から17回連載した」とある。
ただ、雑誌連載だと、「前述のとおり」という説明があっても、
前の記述を覚えているはずもなく、といって先月号を確かめるわけにもいかず、
その場その場でそんなものかと思いつつも、全体像が見えなかった。
その後、加筆のうえ単行本化されたとは聞いていたが縁がなく、
刊行から10年を経て、ようやく手に入れることとなった。
さて、日本将棋だけが持駒を使用することとなったかを探ろうとすれば、
世界の将棋の中で、日本将棋がどのような位置にあるのか、
いつ、どんな形で日本に将棋が伝搬し、どう変化したのかを探らねばならない。
著者は、古代インドに生まれた「チャトランガ」までさかのぼる。
まだダイスの目によって駒を動かした4人制のゲーム「チャトランガ」は、
まず2人制になり、ダイスがなくなって技量の差で勝負するゲームとなり、
やがて駒の名前や動かし方が変化しつつ、世界中に伝搬していく。
著者は、その跡を丹念にたどりながら、その改変の歴史を明らかにしていく。
例えば、タイで最も古い時期に改変したとされる「歩を3段目に並べる」というルールは、
インドから西に伝搬したチェス系にはなく、
インドで最後に改変したとされる「ポーンのナナメ駒取り」は、
西のチェス系とタイにはあるが、中国以東には伝わっていない。
そして、インドにおける古い改変であり、チェスにも中国の象棋にも伝わっている
一番端の駒(日本の香)が縦に前進するだけの動きから、
縦横に自在のルークや車になり、
その隣の駒(日本の桂)が二方桂の動きから、
八方桂のナイトや馬になるなどの改変が
日本には伝わっていないことなどを指摘した上で、
日本には、タイ(の最も古い改変)を経由したものの、
インドでの古い改変を経ないまま日本に伝わり、
相当早い時期から、中国の象棋とは分かれて発展したのだとしている。
こうした世界将棋史を踏まえながら、立像の駒が手書きの木片駒に変化したこと、
まだ飛車角がなかった平安将棋では引分けが多くゲームとして行き詰まったことから、
持駒使用が発明されたのではないかというのが、著者の主張である。
そして、興福寺から出土した1058年作と推定される駒において、
同じ「金」と書かれている銀・桂・歩の裏側の字体が異なることから、
取った駒を再使用するためには、駒の区別が必要だったのだとする。
この分野では、遊戯史の研究者と論争を繰り返しているらしく、
本書でも相手の主張を個別に検討しながら丁寧に反証している。
中には数ページにもわたるものもあり、
不利になる変化を解説している定跡書のようで、
いかにも棋士が書いた研究書らしいと感じられた。
また、平安将棋が手詰まりになりがちなことを、
実際に対局することで検証しているのも、棋士ならでは、と言えそうだ。
もっとも、「持駒使用」の理由や、その時期、また、世界的な将棋伝搬史を
この一冊を読むだけでうのみにするわけにはいかないだろうが、
素人なりに読んでみて、いかにも胃の腑に落ちるという感はあった。
今さらながら労作である。
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