「耳なし芳一」は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)「怪談」にあるが、子供のころラジオ番組で聞いて、武士の呼びかける声や鎧の音などにふるえあがった。
琵琶の名手である盲目の芳一が、安徳天皇の墓の前で毎夜平家物語を謡っているのに気づいた和尚が、平家の亡霊に見えないように、芳一の体にお経の文句を書きつけたが、耳に書くのを忘れたために、亡霊の武士に耳を引きちぎられて持って行かれたという話である。
私は長く誤解していたのであるが、怪談の話は、せつ夫人が話した出雲に伝わる民話だと思っていたのだが、そうではなく、漢字が読めない八雲に、武士の娘で教育を受けている夫人が、江戸時代の物語を読んで聞かせたものとのことであった。
八雲は、祖先から未来へと受け継がれる魂の世界を信じていた。明治時代に日本に来たのは、近代文明や大宗教以前の、古代人の精神世界が残されていることを期待してのことだった。
さて、劇作家の山田太一は、「舞台戯曲 日本の面影」集英社1993で、八雲のたましいの、つまりゴーストへの思いに従って、芳一は亡霊たちを恐れていたのではなく、その魂を鎮められたことを喜んでいたのであり、耳も自分から持って行かせたのだ、と晩年の八雲にその真意を語らせている。
確かに、年をとればゴーストの方に親しみを感じるようになる。オールド・ブラック・ジョーは「我も往かん 老いたる我も」と、今はゴーストとなった友人たちに呼びかける。
しかし、八雲は武士の倫理道徳にも共感していた。戦利品として首を、なければ耳をもっていくのは武士の習いである。八雲の描く「雪女」も昔の厳格な母親像を映している。
生きている者にとって、ゴーストの世界は、対立しつついずれはそこに帰って行く故郷なのであろう。
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