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2010年11月14日18:06

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賢治ととし子(14)  とし子の果たした役割(その1)

 とし子は賢治の創作に、積極的な役割を果たしたのかどうなのか、このことが問いなのである。そろそろ、不十分でも結論を出さねばならない。
 詩集「春と修羅」が、とし子の懺悔と信仰告白の書である「自省録」に触発されたものであることは間違いないと思う。詩「春と修羅」こそ、賢治が自身を釈迦にそむく修羅として告白し、懺悔したものだからである。このことについては、先に述べた。
 問題は童話の創作である。賢治は家出して、東京の日蓮宗団体の一つ国柱会に使ってもらおうとして断られたのであるが、その時、信仰のあかしとして童話創作を勧められたと言っている。これが、童話創作の動機の定説である。ただし、賢治に勧めたとされる幹部の回想では、一般論として言ったと思う、と述べている。賢治の思いこみの部分が大きいのかもしれない。
 賢治が家出したのは1月、その年の3月か4月に、花巻女学校教師のとし子が、母校日本女子大に、英語教師の推薦を求めて上京しているのである。その6月にとし子は発病し、以後、翌年の12月の死まで床に就くことになる。
 その上京のとき、賢治を訪ねているはずだ、というのは仮説というより、絶対の事実だと思う。賢治もとし子もそうはいっていないのだが。とし子が賢治の生活ぶりを心配しないはずはなく、当時のこととて、上京の機会はたびたびあるはずがないからである。
 ということで、とし子が賢治に会ったのは、まさに童話創作の渦中であり、それを読み、一層の創作を勧めたはずである。賢治はこれからどうして社会の役に立つのか。これまで二人で悩み、相談しあっていたのである。賢治に宮沢商店経営の才はない。経営すれば破産する。というのが、とし子の判断であった。賢治は東京でとし子と二人で新しい商売をしたかったのだが。しかし、童話の創作ができるのを見て、これだと考えたはずである。
 とし子発病後、賢治を呼び戻したのは、童話創作を見届けたかったからであろう。自省録にあるように、とし子も社会に役立つことを第一に考えていた。ただ、慰めてもらうために賢治を戻したと考えてはならない。
 これまで述べたように、賢治が情の人であるのに対して、とし子は冷静な理の人なのである。
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