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2010年11月06日22:05

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賢治ととし子(11)  恋人として、妻として

 賢治は1927年6月付で、ある女と1年間夫婦であったこと、その夏に、村娘から二十銭で買った花が、二円で売れたといって妻が喜んだが、冬には1日の病気で苦しまずに死んだという詩「わたくしどもは」を書いている。状況からいって、この妻はとし子のことだというのが定説である。
 問題は、二十銭が十倍の二円に化けたというようなことがあったかである。それで、不思議な笑いというような謎の笑いで、とし子が大喜びすることがあったのか。それはただ一つ、賢治の童話「雪渡り」が新聞に掲載されて、賢治生前の唯一の原稿料が入ったことである。賢治の童話が世に認められた、その才能が認められたのだ。不思議な笑いとは何だろうか。この童話は、幼い賢治ととし子を思わせる兄妹と狐たちの交歓の物語なのである。とし子もそのおてんばぶりで活躍している、・・・書いてくれたな。
 それ以上に問題は、5月付の「古びた水色の薄明穹のなかに」にある。ここに、寄宿舎の舎監に任命された賢治のもとへ「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたずねてまいりました」というのである。この恋人はだれか。これが書かれたのは、らす地人協会の時期である。しかし、雪の夜に男物のマントを着て賢治を訪ねるという大胆なことがありえただろうか。しかも何度も、ということは賢治もその訪問をよしとしているのである。当然であろう。恋人と認めているのだから。
 「春と修羅」補遺の「青森挽歌三」には、黒いマントの女性をとし子と見間違えて、生きていたのかと叫んだとある。宮沢家の別宅での病気療養中、とし子は看護婦と1階に寝て、賢治は2階に寝ていたという。看護婦が寝た後、賢治のマントを羽織って2階に上がることはなんでもないことだった。眠れないとし子が、賢治と童話や詩のことを語りあったのであろう。「春と修羅」のような詩を書かれては、とし子も安心していられないはずだ。
 二人は恋人同士であったのである。
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