とにかく、いろんなことが同時に起きている。
1854年、ペリーが日米和親条約を結び帰国したころ、
中津藩では、すったもんだのあげく福沢諭吉を長崎に留学させ、
さらに、大坂の適々斎塾に入門する。(同じころ手塚良仙君も入門した。)
そのころ、ロシアのプチャーチンは、地震により沈没した船を
日本の船大工の力を借りて再建し、日露和親条約とともに帰国する。
そのころ、ロシアのトルコ侵攻にフランス・イギリスが介入し
ナイチンゲールの活躍で知られるクリミア戦争が勃発しており、
プチャーチンの部下の一部はロンドンに幽閉され、捕虜収容所内で
日本人密航者の手助けにより日露辞書が作成される。
そして、産業革命に遅れ、戦争に敗れたロシアが農奴開放令を発した1861年、
酷似した支配構造を持つアメリカ南部11州は、北部23州と戦うこととなる。
という、さらに数年前、自伝を書き終えたペリーが亡くなる。
話を1854年の日本に戻すと、幕府はオランダから洋式帆船を購入し、
薩摩藩は小型ながら蒸気船を開発する。
そのころ、宇和島藩の村田蔵六は独自に蒸気船の雛形を完成させ、
押しかけ弟子のシーボルト・イネを残し、妻のいる長州に去る。
そのころ、改革派老中阿部正弘は、ブレーンに勝海舟を抜擢し、
さらに長崎海軍伝習所に、洋式軍艦の操縦法を学ばせるべく送る。
というところに、安政の大地震が起こり、江戸の町が壊滅し、
水戸藩邸では、水戸藩を支えていた藤田東湖、戸田忠太夫が亡くなる。
そんな1巻。ほんの2年間のこと。
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