大河には、ときどき「ご褒美退場」があります。
ここまで物語をリードしてくれたことに脚本からも演出からも敬意と感謝をこめて、
特別なしつらえが用意された退場劇を勝手にそう呼んでいます。
段田安則の兼家の死はまさしくそういう場になり、それに応えるような熱演でした。
自ら死期を悟り出家を決意した兼家は、道隆を後継指名し、道兼を絶望させ、
選挙カーじみた道綱の母も兼家が「嘆きつつ」の歌を思ってくれたことで報われました。
明子の呪詛が通じたのか天命か、少なくとも月を赤く濁らせたのは呪詛なのか、
真相は定かでないまま巨星兼家は落ちました。
このドラマの良さは、男たちによるお決まりの政争だけではなく、
女たちの反応、反響を丁寧に描いているところでしょう。
穢れを怖れず抱きしめた道長に惚れた明子、私も子作りを気張らねばと宣言する倫子、
飲んだくれる道兼を見限った繁子、そして何より袖の中のガッツポーズのいとです。
漢詩の会をならった和歌の会は、まひろとききょうを再会させる仕掛けでしょう。
未婚女性が集まる和歌の会だからか、
漢詩の会を引き継ぐように、お題発表は元輔に代わってききょうが、
歌の披露は為時に代わってまひろが務めます。
というロングパスもなかなかの妙味です。
改めてまひろを訪れたききょうは、第2章のガイダンスのように生き方を語ります。
下々の子に字を教えても意味はない、志を持たず婿取りしか考えない姫たちは嫌い、
女房に出仕して広く世の中を知りたい、嫌がる夫は捨てようと思う。
劇伴が(「阿修羅のごとく」の)トルコ軍楽風なのがいかにもです。
ききょうも危惧したように、
まひろは教え子の父から「慰み者じゃねえ」と拒絶されます。
既存のパラダイムは、それだけ強固です。
無力な一人の力だけで下からの改革など出来るものではないのです。
賢い子なら一生畑仕事であっても、よく獲れるような工夫を見つけることでしょう。
一方、道長は直秀の理不尽な死を思って検非違使の改革を献策しますが、
宮廷政治にしか興味のない道隆は相手にしません。
それどころか、前例のない定子中宮案で公卿を説得するよう命じられてしまいます。
道長は、権中納言になっても、まだ力が足りていないのです。
道長の無力感に、ききょうの無力感が重なります。
こんな時にも二人は共鳴しています。
ひょっとすると、この場面を作りたいために、
まひろに市井の子に字を教えるという無謀な試みをさせたのかもしれません。
少し意地悪な見立てかもしれませんが。
というわけで、今回の秀逸は、
問うても幸せはないとわかっているので道長の上の空を不問にする倫子のストレスでも、
政治的には残念だが女性にはやさしい為時がキメた「この家はお前の家である」でも、
それでも兼家の死に涙する為時の恨みばかりでは語り切れない複雑な因縁でも、
子どもとはいえ母親の前で何をしてるんだと詮子が怒るのも無理はない、
帝の定子への後ろ乗っかり抱きでも、
まひろのハナクソ呼ばわりも仕方ないほど高貴だが面倒そうな妻と再婚した実資の
伊周の蔵人頭任官を異常と愚痴った途端、日記に書けばと言われる通常運転でもなく、
道兼の殺人の穢れが生涯消えなかったことの裏返しのように、
直秀の埋葬をきっかけに穢れを怖れなくなった道長が、
兼家の遺骸を抱きしめ明子を見舞うなど、平気で穢れの壁を越えてくることで得られる
相手からの特別な信頼という貴族としての稀有な能力。
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