さらに2年がたち、道隆の昵懇の者だけが出世する(実資も「心配」な)政が進みます。
当然のように道長も権大納言に出世し、
政治的に重要な定子の見守り役を期待してか中宮大夫も兼ねています。
しかし、道長は、道隆が期待するような本家を忠実に支える傍流にはなりませんでした。
道隆に「お前は実資か」となじられますが、むしろ官僚としては名誉なことでしょう。
また、「大鏡」の描写を伊周の慢心と道長の嫌気に変奏した弓比べは、
伊周の変調を見た道隆がたまらずレフェリーノーコンテストにします。
このあたりの流れから、二つのことが見て取れます。
一つは、冒頭の道兼への激励も含め、道長はどこまでも「光る」存在でいることです。
そもそも、政治的頂点を目指すという道長の野心は、
まひろに言い渡された人生目標であり、それを実現することがまひろへの愛でした。
それゆえ、道長の上昇志向は巧妙に美しいものに創作されていきます。
もう一つは、祈りや呪いを本気で信じてしまう当時の精神世界の反映です。
「我が家より帝が出る」「我、関白となる」と同じ願をかけて弓を射れば、
その結果はそのまま神意となってしまいます。
そう思うと、道兼の「摂政の首が取れたら、魂だってくれてやる」が不吉すぎます。
一方、「私は一歩も前に進んでいない」と嘆息するまひろのもとにさわがやってきて、
石山寺詣から(お役御免と思っていた)道綱の母とのファンミーティングが始まり、
「書くことで己の悲しみを救いました」と創作のバトンがまひろに渡されます。
それにしても自然な流れからの思わぬ展開です。
ちなみに、道綱の人違い夜這いは「空蝉」エピソードにつながるのですが、
人違いでも「いたし」た光源氏と違い、
かえって相手を傷付けるのにミエミエの言い訳で止まる中途半端な「誠実」さが、
道綱のダメな善人ぶりを表しておりました。
(さすが、紳助をだましきった「おバカ演技」です。)
それにしても、同じ孤独な境遇とまひろを慕っていたさわですが、
「嘆きつつ…」の歌を「痛いほどわかる」まひろを「そうだったの」と見つめ、
一気に置いてきぼり感にさいなまれて眠っているところに道綱の件があっては、
どうにもやってられない気持になるのもわかります。
そんなさわが、やけになって川へ向ったところで、
二人にたくさんの庶民が疫病で死んでいる姿を見せるあたりも巧みな誘導です。
すでに都の外では天然痘が大流行しています。
(政治的にはアレでも)まだ清浄な都も、きっと無関係ではいられないはずです。
というわけで、今回の秀逸は、
帝と定子が興じる偏継ぎで出来あがってしまった「政」の文字でも、
まひろの琵琶から帝の笛へと場面転換の中でそっと渡された音から音へのバトンでも、
よりによって左大臣が危篤という夜に明子のもとに通っている道長の不徳でも、
少しお姉さんになってもまだ少女めく定子ことミュージカル出身の高畑充希、
無敵のシングルレディのききょうこと小劇場出身のファーストサマーウィカ、
したたかな娘から強き母に変貌した倫子こと高校演劇出身の黒木華、
という関西系3女優の誕生日が一年ほどしか違いがないことでもなく、
上品を濃縮したような定子の美しさにズギャンとなったききょうの、
従来、謎とされてきた「清少納言」の名の「少納言」部分の由来を
「元夫は少納言じゃなかったけど、定子さまが名付けてくれたのならオッケー」とした、
もはや誰にも文句を言わせない堂々たる推しパワー。
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