雑誌掲載時の表題は「待兼山奇談倶楽部」である。
待兼山と聞けば、青春時代の数年間ひたっていた地名だけに見過ごせない。
作中に登場する「曙食堂」が本当は「憩食堂」であることも知っている。
ただし、40年以上も前の話だ。
数年前に懐かしさとともに駅周辺を歩いたことがあるが、この本で書かれているとおり、
高架化もされず「駅前に蜘蛛の巣のような路地が生き残って」いた。
モデルとなった石橋駅は「待兼山駅」に名前を変えてあるが、
街の描写には(昔のことなので、そうだったっけというものも含め)懐かしいものがある。
舞台は待兼山駅の東口から北に入り込んだ書店の2階にある「喫茶マチカネ」、
時代を2019年に設定しているのは、駅名変更が関係しているからだが詳細は省略する。
閉店を決意した「喫茶マチカネ」で、ひょんなことから月1回の閉店後、
ゲストに待兼山の街にゆかりの「不思議な話」を語ってもらい、皆で聞くこととなった。
名付けて「待兼山奇談倶楽部」。
とはいえ、「奇談」となると、いささかオカルトやホラーのにおいがしすぎる。
あくまで「不思議な話」だし、どちらかというと増山実の真骨頂である、
立場の弱い人間がままならない世の中で精いっぱい努力し、
やっと小さな幸せをつかむという「ちょっといい話」に属するものが多いので、
オシャレな「今夜、喫茶マチカネで」と改題したのは正解だろう。
ビートルズの「ロッキー・ラクーン」が好きな「カレーの店 ロッキー」の時任さん、
大学時代に待兼山温泉でアルバイトをしていたピアニストの城崎さん、
戦前からずっと続いているうどん屋、能登屋食堂のおばあちゃんこと村田さん、
喫茶マチカネの向かいのバー「サード」の少しオネエサンめいたマスターの大さん、
大学時代にイラク空爆に抗議して駅前で世界の「抵抗の歌」を歌っていた山脇さん。
彼らにはそれぞれけっして忘れることのできない特別な人との思い出があって、
その特別な人たちにはそれぞれに「不思議」があった。
それが、待兼山の狭い街と強く結びついていることもあり、
まさしく地に足がついた力強さを伴った物語になっている。
音楽にまつわる話も多く、脳内で再生することでなおさらに情感を高めてくれた。
すべての増山作品を読んでいるわけではないのだが、
長く人を取材し、取材した人をわかりやすく感動的に描く仕事をしてきただけに、
大きく振りかぶった長編よりも、
短編連作という形で人を活写する方が増山実になじんでいるようにも見えた。
などと思っていたら、最後に大ネタが控えていた。
増山実は、最初からこの「大きないい話」を仕込んでいたのだ。
やられたなあ。
こうなると阪急電車の運転士だった沖口さんが、
皆の話を聞いてどんな反応をしたか、どんなことを言っていたか気になってきた。
むろん、この本を読んだ善男善女は、石橋の街を「聖地巡礼」するにちがいない。
私も、関西に戻った折にはもう一度訪れたいと思っている。
というか、来年1月11日の夕刻には、あの橋はどんな賑わいになるのだろう。
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