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2023年05月31日20:21

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浮世の謎(84) 渡辺京二「逝きし世の面影」1998葦書房

 1枚目 ワーグマン「長崎の元旦」1865慶応元年  旅のしおりブログから
 2枚目 レガメ「行水」 旅のしおりブログ
 
 著者は1930―2022。思想史家。日本読書新聞編集者。
 「苦界浄土 我が水俣病」1969 で有名な石牟礼道子1927―2018 の盟友。
 石牟礼は霊媒のように書く人で、渡辺に本当に調査したのかと問われて、どの患者の所にも行っていないと白状した、とのこと。

 本書は明治維新前後に来日した外国人の書き残した日本の印象記集である。

 江戸時代末期1858年 日英修好通商条約締結のためのエルギン卿使節団
  オズボーン 艦長
  オリファント エルギン卿の秘書

 川崎大師の見物のために馬で遠乗りしたオズボーンに群衆が付いてきた。警吏が門を閉めて付いて回る群衆を閉じ込めたが、それに気が付いた群衆は笑い出した。
 広い通りに出て、オズボーンたちは駆け足(ギャロップ)になって警吏たちは置いてけぼりにされた。置いて行かれた馬丁たちは笑い出した。

 最初の寄港地の長崎で、オズボーンやオリファントは、「個人が共同体の犠牲になる日本のはずだが、男も女も子供も、みんな幸せで満足そうに見えた」とのこと。
 日本人の色彩感覚は中国人と比べて地味である。富裕な商人や女は明るい色彩を着ているが、それでも原色はなく中間色である。

 それに乞食もいない。この印象派「ヤング・ジャパン」の著者で15年間滞在していたブラックの観察と同じである。

 第2章 陽気な人々
 初代英国公使で、「太君の都」の著者オールコック
 日本人はいろいろ欠点はあるが、確かに満足して、気さくで幸福そうだとの印象を持った。
 米国のペリー提督も、下田で幸福そうな人々を見ているし、
 オズボーン艦長も、下田を壊滅させた大津波の後で、再建された下田の住民は幸せそうに見えた、とのこと。また、江戸でも不機嫌でむっつりした顔を見たことはないと。

 1867年フランス人旅行家で、ジャワ、シャム、中国などを旅行したボーボワル伯爵は、日本人ほど笑い上戸で、愉快になりやすい人種はない。子供のように理由もなく笑い続ける、と言う。日本での一番の見ものは、町や田園での人々だった。 
 自分の背丈ほどある弟を背負った小娘が、微笑んで「オハイオ」と呼びかける。

 1978年英国人の旅行家イザベラ・バードは東北や関西を旅行した。
 奈良県で、三人の車夫が伊勢旅行に雇ってくれと頼んできた。それで、体の弱そうな一人を除いてと言うと、長身だが驚くほど醜い顔をした車夫が、彼は貧乏なので金が要る。彼の分も自分が働くからと頼んだ。実際、この男ほど愉快で、忠実で、気の利いた人間に会ったことはない。彼を醜いと見たのは自分の間違いだ。イエスの弟子のような人だった。別れるのがつらかった。

 1863年スイス人外交官アンベール
 日本の庶民は、子供のように物語を聞き、歌を歌うのが好きである。

 日本が「子どもの天国」の観を呈していること、多くの証言がある。実際、日本人の大人も大きな子どもなのである。

 要するに、開国前後に来日した外国人は、幕府の応対には苦労したに違いないが、一般民衆に対しては好意的だった。
 その要因になったのは、民衆が良く笑って機嫌がよいと言うことにあった。逆に、攘夷派の武士は危険極まりなかったし、だいたい武士は怒りっぽいと言う評判だった。本書には、オランダ人でハリスの通訳になったヒュースケンの好意的な日本観察も記録されているが、彼は攘夷派に暗殺されてしまった。

 十辺舎一九「東海道中膝栗毛」1809年(各国の開国要求はあったが、まだ攘夷運動はなく、危機的状況はなかった) の弥次さん喜多さんは失敗続きの道中記だが、彼らは確かに機嫌よく笑い詰めだった。本書によれば、彼らは江戸時代の庶民の一般的なキャラクターだったことになる。一九はどこにでもいる平凡な人物を主人公の、この場合は旅の案内人に選んだわけだが、だからこそ、愉快な旅の案内書になったのだろう。

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