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2021年11月29日11:04

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日本の心30〜為政者に日本の国柄を説いた明恵上人

 承久の乱(1221)の2年後、北条義時が亡くなり、その子・泰時が三代執権となりました。泰時は、人に与えること多く、自らおごることのない誠実な人間でした。善政に努め、厳正な裁判を行い、高位高官を望むこともありませんでした。この泰時によって、頼朝以来の武家政治は基礎を確立したのです。
 泰時には、明恵(みょうえ)という人生の師がいました。承久の乱の時、後鳥羽上皇方の兵が、京都栂尾(とがのお)の高山寺に逃れてきました。寺の僧・明恵は、彼らをかくまいました。そのため北条側にとらえられます。この時、明恵は泰時に対し、「救いを求める者は、今後も助けたい。それがいけないというのなら、私の首をはねよ」と言いました。その態度の情け深く、また毅然(きぜん)としていることに、泰時は感心しました。そして、後日、明恵のもとを訪れました。
 すると明恵は、承久の乱の処置について、泰時を諫(いさ)めました。「わが国においては、万物ことごとく天皇のものであり、たとえ死ねと言われても、天皇の命令には決して逆らってはいけない。それなのに、武威によって官軍を亡ぼし、太上天皇を遠島に遷(うつ)すとは、理に背く振る舞いである」と。
 乱の後、北条氏は、天皇を代え、三上皇を島流しにしました。国家権力を掌中にした北条氏に対し、ものを言うことのできる者はいませんでした。しかし、明恵は畏れず、為政者の泰時を叱(しか)り、日本の国柄を説いて武士のあるべき姿を諭したのです。泰時も、乱の際の父・義時との問答に見られるように、もともと尊皇の心をもっていたので、明恵の言葉は痛く響くものがあったのでしょう。以来、泰時は明恵を人生の師と仰ぐようになったのです。
 明恵は建永元年(1206)、34歳の時、後鳥羽上皇から栂尾山をたまわり、高山寺を建てて、華厳宗の復興のために尽くしました。その功績により、華厳宗中興の祖といわれます。   
 いったい仏教の僧侶である明恵がなぜ、わが国は天皇のものであり、泰時らの行為は理に背く振る舞いである、と諭したのでしょうか。
 明恵は両親を幼くして亡くし、天涯孤独の身でした。仏教の道に入り、修行を重ね、徳の高い名僧となりました。「山のはに われもいりなむ 月もいれ よなよなごとに またともとせむ」ーーこれは月を友として明恵が詠んだ歌の一つです。月を友とするというように、明恵は、自然の風物、身に触れるすべてのものに、深い情をもって接しました。明恵は刈藻島(かるもじま)という島で行をしたことがありました。島から帰った後に、自然の豊かなその島が恋しくなって、手紙を書きました。宛名は「島殿」となっていました。使いの者が「いったい誰に、手紙を届ければよろしいのでしょうか」とたずねたところ、「『栂尾の明恵房のもとよりの文にて候』と島の真ん中で読み上げてきなさい」と答えたといいます。
 こうして自然と一つとなって暮らした明恵は、自然のままであることを大切にしました。
 仏教には、王権を認め、国家の鎮護を祈るという教えがあります。また明恵が修めた華厳経には、すべてをあるがままに肯定するという思想があります。
 こうした考え方は、「人はあるべきやうはと云、七文字を保つべきなり」という明恵の遺訓に表れています。弟子の喜海が記したと伝えられるこの言葉は、『明恵上人伝記』や『沙石集』では、「王は王らしく、臣は臣らしく、民は民らしくふるまうべきだ」と解釈されています。つまり、王とは天皇であり、臣とは天皇に仕える者、貴族や官僚や武士であり、民とは一般の庶民です。明恵は、天皇と臣下と庶民、それぞれが分を守って振る舞うことが、自然な姿だというのです。
 この考え方は、明恵の独創ではありません。古代から我が国に受け継がれてきた考え方でもあります。鎌倉時代にもそれが当然のこととして、人々に定着していたのです。それは、日本の国は、天照大神の子孫である皇室が治めることが、在るべき姿であると思われていたことが前提となっています。皇室の権威は神話に根ざしたものであり、文字が使用される前の時代から伝わっている神的かつ伝統的な権威なのです。日本人は、この国は皇室が治める国であり、各自が在るべきように振舞うことを、自然な姿として受け止め続けてきたのです。
 明恵は、このような我が国の国柄と、日本人の在るべき姿を、泰時に説いて聞かたわけです。強大な武力を持つ権力者に、説教をするということは、並みの度胸ではできません。そこに明恵の精神力の強さや人格の高潔さがうかがわれます。
 明恵は、泰時に対し、「天下を治める立場の者一人が無欲になれば、世の中は治まる」という教訓を与えました。泰時はこれを肝に銘じて、実際の政治に生かしました。泰時自身、「自分が天下を治めえたことは、ひとえに明恵上人の御恩である」と常々人に語っていました。自分の家の板塀が壊れて内部が見えるほどになっても気にせず、御家人たちが修理を申し出ても、泰時は無用の出費だと断りました。裁判の処理も道理に適って明らかでしたので、武士の信望を集めました。
 承久の乱では朝廷から実質的に権力を奪った泰時でしたが、我が国の国柄の根本を損なわぬよう、朝廷の権威を侵さずに、武家政治を行うことに努めたのでした。

参考資料
・『人物叢書 北条泰時』(吉川弘文館)
・白州正子著『明恵上人』(講談社文芸文庫)

 次回に続く。

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