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日記一覧

 イギリスのサンダース陸軍参謀総長は「われわれは今、1937年と同じ状況にいる」と述べ、ロシアのウクライナ侵攻が大規模な戦争に発展する可能性を警告したと伝えられます。-----------------●時事通信 令和4年6月29日 【ロンドン時事】英国のサ

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●『呉子』◆概要 『呉子』は、シナ文明の武経七書の一つ。『孫子』と並び称されてきた兵法書である。◆著者 著者は、戦国時代の兵法家・呉起(前440年頃〜前381年)に帰せられる。 呉起は魯で孔子の弟子の曽子に学び、魯の将軍となった。その後、魏

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 戦前、わが国の進路を誤らせた重大な事件の一つが、昭和11年に勃発した2・26事件です。決起したのは、青年将校たちでした。彼らは、「君側の奸」つまり天皇の側近くにいる悪臣を除けば、国が正されると考え、さして計画性もなくクーデターを試みました

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●『孫子』(続き)◆日本での摂取・活用 『孫子』が日本に伝えられたことを史料的に確認できるのは、『続日本紀』天平宝字4年(760年)の記述とされる。遣唐使として唐に留学した吉備真備は、シナ文明の古典とともに『孫子』『呉子』をはじめとする兵法

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 “最後の海軍大将”となった井上成美(しげよし)は、非戦派として有名です。井上は、昭和10年代、米内光政、山本五十六とともに「海軍の三羽烏」と呼ばれ、陸軍のもくろむ日独伊三国同盟に頑強に抵抗しました。井上は三人の中で最も強硬で、その後も対米

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●『孫子』(続き)◆思想(続き)#軍事戦略 孫子は、計篇で、戦争を行う前に、敵味方の実情を詳細に比較・分析し、充分な勝算が見込める時にのみ兵を起こすべき、と説く。軍議においてその比較・検討を行うために、「五事」「七計」を挙げる。 五事とは、

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 昭和戦前期、少数ながら、政府・陸軍の暴走に反対した指導者がいました。海軍では、岡田啓介のほか、米内光政、山本五十六、井上成美、鈴木貫太郎らが挙げられます。そのうち、海軍大将米内光政は、威風堂々とした端麗な容貌で有名でした。無口でしたが、内

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●『孫子』(続き)◆思想#国家総合戦略 孫武は、『孫子』の序論に当たる計篇の冒頭で、次のように述べる。 「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」 (大意: 軍事は国家の大事であり、国家の死生、存亡に深く関わる。ゆえに

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 昭和12年7月、支那事変が勃発し、紛争は泥沼化しました。国民はいつ終わるとも知れぬ事態に不安と疑問を感じていました。そうしたなか、衆議院議員・斎藤隆夫が国会で質問に立ちました。昭和15年2月2日、斎藤の演説があるというので、傍聴席は超満員

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●『孫子』◆概要 『孫子』は、シナ文明の春秋時代の兵法書で、呉の将軍・孫武の著とされる。春秋時代とは、紀元前770年から前403年の約360年間を言う。周の権威が衰えて、諸侯の争いが絶えなくなった時代である。『孫子』は、古代シナの実戦体験を

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 東条英機と対決し、日本を終戦に導いた岡田啓介には、右腕がいました。迫水久常(さこみず・ひさつね)です。 迫水久常は、戦前から「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の教えを受け、戦後もその教えに従って国家・社会のために努めた人物です。迫水

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(2)シナ文明の軍事思想 はじめに、シナ文明の軍事思想を概観する。●シナ文明では戦略的な思考が発達 シナ文明では、古代から世界の諸文明の中で、戦争に関する思想が最もよく発達した。そのことは、ユーラシア大陸東部のシナ地域は、さえぎるもののない

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 戦前、陸軍では、軍の独断専横を抑えようと、宇垣一成が孤軍奮闘しました。一方、海軍では、陸軍の無謀な作戦、危険な政策に対し、岡田啓介・米内光政・山本五十六・井上成美らが断固反対しました。彼らのもとにも、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一

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5.軍事戦略論の歴史 項目5では、人類の軍事戦略論の歴史を記述する。最初に古代から戦争の歴史を簡単に振り返り、主な文明の軍事思想について述べ、その後、近現代の軍事戦略論を概説する。(1)戦争の歴史と軍事思想の発達  人類は、食糧や物資の生産

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 大塚寛一先生は、「明けゆく世界運動」の創始者にして総裁です。大塚総裁は、戦前、『大日本精神』と題する建白書を、毎回千余通、時の指導層に送付しました。大塚総裁の建言に耳を傾け、国政に努力した指導層の一人に、陸軍大将・宇垣一成がいます。 ●陸

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4.非軍事分野への応用 本稿の冒頭に書いたように、strategyとしての戦略は本来軍事用語だが、今日では、政治・経済・外交等の国家活動の諸分野や民間企業の経営、スポーツ、ゲーム、生物学等でも、広く使われている。ここで簡単ではあるが、こうした非軍事

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 私は、大塚寛一先生の「大東亜戦争は戦う必要がなかった」「日本には厳正中立・不戦必勝の道があった」という希有な歴史観を学んできました。そうはいっても、日米開戦は避けられなかったのではないか、どうすれば避け得たのか、という質問があろうことと思

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●戦略研究の哲学的な課題 ルトワックは、「逆説的論理」を、より一般的に「戦略の論理」とも言っている。もしそう言うのがふさわしければ、逆説というより法則となる。だが、逆説的な現象が法則性を持つかどうかは、常に客観性と再現性をもって現れるかどう

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 明治末に現れた「日本精神」という言葉は、大正期から積極的に用いられ、昭和戦前期には広く国民的に使われました。 大正期から「日本精神」を論じていた人物の一人に、安岡正篤(まさひろ)がいます。安岡は東洋思想に造詣が深く、戦前から国家指導層に指

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●戦略の逆説的論理(ルトワック) 軍事戦略にせよ作戦戦略にせよ、戦略は自己完結的ではなく、我が方と相手方との間の相互作用を通じて展開する。ボーフルは、これを戦略の弁証法と呼んだ。この相互作用的な展開には、常識で考えると奇妙な論理が働く。ルト

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 民主主義とは、デモクラシーの訳語です。デモクラシーは、「民衆が権力に参加する政治・制度」を意味します。これは、戦後初めてわが国に移植されたものではありません。明治天皇による「五箇条の御誓文」に、既にデモクラシーは打ち出されています。以後、

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●作戦戦略の種類 軍事戦略は、戦争目的を達成するために国の軍事力その他諸力を準備し計画し運用する方策であり、軍事行政・軍事作戦の全体に係るものをいう。これに対し、軍事作戦を実行するために大規模な部隊の作戦行動を指導する方策は、作戦戦略と呼ん

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 民主主義と訳されているデモクラシーという言葉は、かつて「民本主義」とも訳されていました。民本主義という言葉は、明治末年から使われはじめ、大正初年には井上哲次郎、上杉慎吉らがそれぞれの立場から用いていました。この言葉が一躍脚光を浴びるように

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●軍事戦略の成否を分けるもの 軍事戦略の成否を分けるものは何か。 エチェヴァリアは、『軍事戦略入門』で、次のように書いている。 「かつて孫子は断じた。至高の戦略家とは、戦わずして勝つ者である、と」「しかし一般に、軍事戦略の営みが四方八方で誤

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 昭憲皇太后の御歌は2万7千余首、明治天皇と琴瑟相和(きんしつあいわ)し、歌聖としても仰がれています。明治天皇は「教育勅語」を発するとともに、和歌の内に人の道を詠み、国民に人としての在り方を諭しました。昭憲皇太后もこれに和して、多くの道徳的

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3.軍事戦略の諸相●国家の活動の一つとしての軍事 軍事は、国家の活動の中の一つであり、軍隊・兵備・戦争等に関する事柄である。軍事の中心をなすのは、外敵の侵攻から国を守ること、戦争を準備し戦争を行うことである。クラウゼヴィッツは「戦争とは、政

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 昭憲皇太后は、明治天皇とともに、わが国民の道徳の向上に、大きな感化を与えました。明治天皇には、自己修養に努めていることが伺われる御製が多数あります。昭憲皇太后にもまた、高い精神性が表れた御歌が多く残されています。 ある時、昭憲皇太后は、侍

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●国家総合戦略と個別分野の戦略の関係 私は、国家において重要な活動として、政治・経済・外交・軍事・文教・情報・科学技術等を挙げる。これらをさらに絞り込むと、経済と軍事になる。人は、まず食っていかねばならない。水と食料の確保が生存のために必要

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 明治天皇の美子(はるこ)妃殿下は、昭憲皇太后と呼ばれています。 昭憲皇太后は、幼少の頃より聡明で心優しい女性でした。明治天皇の妃となるや、天皇とともに、わが国の要として近代国家建設に尽くしました。なにより「昭憲皇太后基金」(The Empress Sho

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●「国家の構造と戦略の体系」(細川) ここまで見てきた戦略論の体系例は、軍事戦略を中心として、それを拡大して、上方向には国家総合戦略へと伸ばし、下方向には戦術を置くという仕立てになっている。これは、戦略という概念を中心としているからである。

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