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2021年11月26日10:53

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日本の心29〜天皇に求められる君徳:承久の乱

 わが国の天皇は、古来、侵しがたい権威あるものと仰がれてきました。その権威は、天照大神の子孫である神武天皇の血筋を引いており、また天照大神から授けられた三種の神器を持っていることによっています。そして、そのうえに、天皇が天皇にふさわしい徳を備えていることが、国民の崇敬を集めてきた所以でした。そのことを強く確認することになったのが、承久の乱でした。
 源頼朝の死後、征夷大将軍となった長男の頼家は暗殺されてしまいます。続いて三代将軍となった次男・実朝は、朝廷に対して忠誠を誓う尊皇家でした。大政奉還の命令があれば、喜んで政権を朝廷にお返しするつもりでした。ところが、幕府の実権を握った北条氏は、政権返上に絶対反対しました。ために、実朝も暗殺されます。ここで頼朝の血流が絶えてしまいました。
 源氏は、頼朝の父・義朝が、子どもでありながら父親の為義を斬首刑にし、最後は自分が家臣に謀殺されました。頼朝も、異母弟の義経・範頼ら一族の多くを殺しました。そういう非道の報いが、血統断絶という結果を生んだのでしょう。
 さて、北条氏は、平氏に属する小さな武家でしたが、北条政子が源氏の御曹司(おんぞうし)の頼朝に嫁いだことで、権力の座にめぐり合わせました。頼朝の子孫が絶えたとき、源氏には名門・足利氏や新田氏がありましたが、北条氏は将軍の座を渡しませんでした。そして、執権という立場から、全国の武家を支配しようとします。執権は、将軍を補佐し政務を総轄する役職ですが、律令制の官職ではなく、幕府内の役職にすぎません。そこで、征夷大将軍には、頼朝と母系でつながっている藤原氏の公達を京都から連れてきました。この将軍は、わずか2歳。まさに傀儡(かいらい)政権です。しかし、北条氏にとっては、皇室の権威を仰ぐほかに、権力を維持する方法はなかったのです。
 北条氏に対して、朝廷側は、後鳥羽上皇が中心となって、幕府から権力を取り戻そうと軍を動かします。それが、承久の乱(1221)です。
 わが国では古代より、天皇に刃向かうことは、強烈なタブーでした。皇室に対して兵を挙げる者は必ず敗けるという観念があったのです。さらにまた、鎌倉武士の間には、尊皇心に篤い頼朝の考えが定着していました。それゆえ、武士たちは、官軍と戦うことに対し、強い抵抗を覚えていました。これを打破したのが、尼将軍と呼ばれた北条政子でした。
 政子は、関東の諸将を集め、頼朝に受けた恩義を強調します。「いま讒諛(ざんゆ=人の悪口を言って取り入ること)する者が上皇を誤らせて、幕府を潰そうとしている。みながもし先の将軍(頼朝)の恩を忘れずにいるのなら、心を合わせて讒言者どもを除去して、幕府を安泰にして下さい。もし上皇の詔に応じて上京したい者があれば、今ここよりすぐに立ち去りなさい」と。頼朝の恩義には、決して背くわけにいきません。それに、政子は、朝廷に反抗せよと言っているのではありません。上皇の周辺で策動する者を討て、というのです。それならば、武士たちも抵抗は感じません。政子の訴えは、勘所を得ていました。
 政子の弟・北条義時とその子・泰時の間では、次のような会話がされました。
 泰時は言います。「一天悉(ことごと)く是れ王土に非ずと云ふ事なし。一朝に孕(はら)まるる物、宜しく君の御心に任せらるべし。されば戦ひ申さん事、理に背けり。しかし、頭を低(た)れ手を束(つか)ねて各々降人に参りて嘆き申すべし」と。すなわち、わが国の国土はことごとく天皇の土地です。その中のものはすべて天皇が思いのままにされるべきものですから、天皇と戦うことは道理に背きます。戦わずに降伏しましょう、と泰時は父を諌(いさ)めたのです。
 これに対し、父・義時は答えます。「尤(もっと)もこの義さる事にてあれども、其れは君主の御政(おまつり)正しく、国家治る時の事なり。……是は関東若(も)し運を開くといふとも、この御位を改めて、別の君を以て御位に即(つ)け申すべし。天照大神・正八幡宮も何の御とがめ有べき。君を誤り奉るべきに非ず、申勧(もうしすすむ)る近臣どもの悪行を罰するまでこそあれ」と。すなわち、お前の言うとおりだけれども、それは君主の政治が正しく行われ、国が治まっている時の話だ。今は違う。この度は、現在の天皇に譲位していただき、別の方に天皇になっていただこう。天照大神・正八幡宮のおとがめはあるまい。なぜなら、天皇ではなく天皇を誤らせた側近の者がよくないので、側近を処罰することが目的だからだ、と父・義時は、泰時に答えました。泰時はこの意見に従い、官軍と戦うことにします。
 天皇ではなく、天皇の周囲の者が悪い。だから、側近を討つことを、「君側(くんそく)の奸(かん)」を除くといいます。この考え方は、天皇を中心とした政治を実現するために、また時には反乱を正当化する考え方としても、後の時代に繰り返し使われることになったのでした。
 鎌倉幕府から実権を取り戻そうと、後鳥羽上皇は、討伐の院宣(いんぜん=上皇の命令)を発しました。承久の乱です。これに対し、抵抗を正当化した北条義時・泰時父子は、武士団を指揮して官軍と戦います。幕府は官軍を連破し、泰時は出発後20日目には京都に入りました。この勝利によって、皇室に刃向かう者は必ず敗けるという古来の観念は破られました。義時・泰時は、後鳥羽院ら三上皇を島流しにし、天皇の周囲の有力者を除いて、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立しました。
 臣下が天皇を力づくで替えてしまうというのは、前代未聞の暴挙です。それゆえ、承久の乱は、日本の国柄を考える上で、非常に重要な事件なのです。この事件以前の日本人は、「日本人民の尊皇心は当時に在りても、実に一種の宗教なりき」と明治の史論家・山路愛山が言うように、皇室に対して絶対的な崇敬を持っていました。天皇は、生来、常人を超えた神秘的な能力、カリスマがあるとして畏敬を受けていたのです。皇室は神の子孫だから神仏が加護しており、皇室に刃向かって兵を挙げると必ず敗れる、と思われていました。臣下は、天皇の命令には絶対に逆らうことができない。背くことは人倫にもとる行為だと信じられていました。ところが、北条氏によって、この観念が破られたのです。イザヤ・ベンダサン(山本七平)は、承久の乱によって天皇の在り方が変わったとし、これ以前を「前期天皇制」、以後を「後期天皇制」と呼ぶほど、この事件を重視しています。
承久の乱以後、天皇はもはや血統と神器だけでは、権威を保てなくなりました。つまり、天照大神の子孫である神武天皇の血筋を引いており、また天照大神から授けられた三種の神器を持っているだけでは、十分ではないのです。そのうえに、天皇が天皇にふさわしい徳を備えていなければ、崇敬されなくなったのです。
 保元・平治の乱以後、世の中は大いに乱れました。そこに秩序を回復したのは、武士の力であり、幕府は善政に努めていました。もし幕府をなくして、朝廷による政治に戻そうとするならば、幕府以上の政治を行うのでなければなりません。この点、承久の乱を起こした後鳥羽上皇は、君主としての徳に欠けるところがありました。男女の道にもとる点があり、実務的な政治能力も不足していました。南北朝期の南朝の指導者・北畠親房は、鎌倉幕府は善政を行って特に罪科はなかったと認めており、それなのに幕府を倒そうと戦いを起こしたのは、「上(かみ=後鳥羽上皇)の御科(おんとが=過失)とや申すべき」と『神皇正統記』で批判しています。江戸時代には、新井白石が、後鳥羽上皇は「天下の君たらせ給ふべき器にあらず」と言い、勤皇家の頼山陽でさえ『日本政記』で、上皇は「軽挙妄動」したのであって「志ありて謀(はかりごと)なし」と断じています。
 さて、承久の乱で天皇を交代させた北条義時は、そのことによって天皇の権威を引き下げる結果となってしまいました。しかし、義時には皇室そのものを滅ぼそうとか、自らが皇位に就きたいという考えは、全くありませんでした。義時は、幕府が実権を保つことのできる体制を作れれば、それでよいと考えたのです。それどころか、北条氏は、朝廷から征夷大将軍という官位を受けられなければ、幕府を維持することができません。朝廷の権威は、幕府の存立に不可欠なのです。源頼朝以後、三代実朝で源氏の嫡流が絶え、北条氏は将軍に貴族や皇族を招いていました。摂家将軍・親王将軍です。このような史実に、わが国の国柄の特徴が表れています。
 承久の乱を通じて、武士は政治権力を保持し、幕府の基礎は確固となりました。このことは、わが国に意外な幸運をもたらしました。というのは、その約半世紀後、蒙古が襲来したからです。その際、武家政権が奮戦したことによって、わが国は亡国の危機を免れることができたのです。

参考資料
・三浦朱門著『天皇 日本の成り立ち』(小学館文庫)
・山本七平著『日本人とは何か。』(PHP文庫)

 次回に続く。

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