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2021年11月20日10:12

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日本の心27〜愛民の政治と尊皇の心:源頼朝

 『平家物語』は、平氏の隆盛と滅亡を描いた物語です。それと並行して、源氏の興隆と制覇を描いた物語でもあります。その源氏の中心として登場するのが、源頼朝です。頼朝は、義経に比べるとヒーロー性はありませんが、その功績は偉大です。
 頼朝は義経とともに、源義朝の子です。義朝は、保元の乱(1156)で、後白河天皇側について勝利を得ました。この時、義朝は、崇徳上皇側についた父・為義を斬首させるという非道を行いました。その後、義朝は平清盛と争うようになり、平治の乱(1159年)で矛を交えます。
 この戦いに13歳の頼朝は、源氏の嫡男として初陣しました。結果は、惨敗。父・義朝は家臣に裏切られて謀殺され、頼朝も平氏方に捕らえられます。しかし、清盛の継母・池禅尼が清盛に助命を嘆願してくれたため、命だけは助けられました。少年でありながら流人の身となった頼朝は、以後20年余り、伊豆の配所で平氏方の監視を受けて過ごしました。
 一方、平治の乱で勝利を得た平氏は、全盛期を迎えました。清盛は皇室の権威をも侵さんばかりの専横です。これに堪えかねた後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)は、治承4年(1180)、諸国の源氏に平氏討伐を呼びかけました。この令旨(りょうじ)を受けて、源氏のプリンス・頼朝は決起しました。
 源氏は、第56代清和天皇の孫・経基が「鎮守府将軍」という地位を与えられ、源姓を名乗ったのが始まりです。八幡太郎義家の時に武勇で名をとどろかせ、平氏と並ぶ名門として知られました。それゆえ、東国の豪族たちは、義家の嫡流である頼朝が旗揚げしたことを歓迎し、頼朝のもとに続々と集結したのです。
 源氏は、頼朝の従弟・木曽義仲や、軍事の天才・義経らの活躍により、平氏を圧倒していきました。文治元年(1185)、平氏は遂に滅亡。頼朝は、後白河法皇より、諸国に守護・地頭を置く許可を受けました。自分はそれを統括する総追捕使(そうついぶし)となり、鎌倉に幕府を開設しました。ここに、武士が政治を行うという、日本の新たな歴史が始まりました。
 建久3年(1192)、頼朝は征夷大将軍の地位を得ます。征夷大将軍は、地方派遣軍司令官という程度の立場に過ぎません。律令制度の役職にはない、令外(りょうげ)の官です。頼朝はそれで満足でした。平清盛が太政大臣という最高位を得たのとは、大きな違いです。また、頼朝は、京都を遠く離れた鎌倉に拠点を置きました。平氏が貴族に近づき同化したことによって柔弱になり、腐敗・堕落していったのを見て、頼朝は、前者の轍(てつ)を踏むまいとしたのでしょう。
 天下を治める過程で頼朝は、平氏を厳しく追討し、さらに従弟の木曾義仲、異母弟の義経・範頼など、一門の多くを殺しました。そのために、頼朝は猜疑心が強く、冷酷な人間と見られています。人気のない所以です。しかし、その反面、頼朝は偉業を行いました。
保元・平治の乱以降、わが国の道徳は大いに乱れていました。皇族にせよ貴族や武士にせよ、一家一族が権力をめぐって分かれて争うのですから、わが国本来の精神から大きく外れています。その混乱の世に秩序を回復できたのは、頼朝に負うところが大でした。頼朝は強大な武力と質実剛健の気風をもって、社会に安寧をもたらしたのです。
 また、頼朝は、人民の安堵に心を用い、いくさの時にも武士たちを戒めて、決して民の生活を害することのないように命じ、これに背く者があれば厳刑をもって罰しました。そして、政治を私物化せず、愛民の心をもって政治に当たったのです。
 南北朝期に活躍した北畠親房は、頼朝の開いた幕府と戦った勤皇家でした。その親房が『神皇正統記』に、次のように書いています。
 「……打ち続く兵乱と奸臣のために世は乱れに乱れ、民衆はまさに塗炭の苦しみを味わっていた。このとき現われて乱を鎮め平和を回復したのが頼朝だった。天皇政治のあり方こそ古い姿に返ることはなかったが、都の戦塵は収まり民衆の負担も軽くなった。上も下も兵火に追われる憂いも消え、頼朝の徳を称える声は全国に広がった。……朝廷がそれにまさる善政を施(し)くことなくしてどうして容易に幕府を倒すことができようか」と。
 親房の志は、もとより幕府を倒し、天皇親政を実現することにあります。にもかかわらず、その親房さえ高く評価するほど、頼朝は仁政つまり愛民の政治に努めたのでした。頼朝が開設した武家政治は、日本の国柄から見れば変則的な形態です。しかし、それなくして中世の日本の混乱は治まることがなかったでしょう。乱世においては、まず力で治め、その後に人心を引き付けて仁政を行うことが必要なのです。
 ところで、幕府開設当時の源氏の勢いは圧倒的でした。御大将・源頼朝は武力によって皇位を奪うこともできたはずです。しかし、頼朝はそうした不遜なことは考えませんでした。むしろ天皇に武官として仕え、朝廷を中心とする律令制度の枠内で、地方統治の委任を受けるという道を選びました。どうして、頼朝はこうした選択をしたのでしょうか。それは、頼朝が、皇室に対して、深い畏敬の念を抱いていたからです。
 第一に、頼朝は、源氏が清和天皇の子孫に当たることを誇りとしていました。父親と早く死に別れ、先祖の供養に篤い人でしたから、自らの先祖がつながる皇室の権威を侵すことは、先祖の意志に反すると考えたのでしょう。第二に、頼朝が武士を結集し得たのは、彼が源氏の嫡流であることに多くを負っていました。皇族の分かれであるという出自に、東国の武士たちは敬意と求心力を感じていたので、頼朝は皇室を敬ったのでしょう。第三に、頼朝は、平氏討伐に当たり、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を拠り所としました。皇族の命令を受けていることが、頼朝の決起に大義を与えていたのです。第四に、頼朝は自分が政治の命令を出しても、朝廷の権威なくしては政治が行われないことを認めていました。それゆえ、律令制度を変えようとはしませんでした。
 これらの理由により、頼朝は、朝廷に崇敬の念を持ち、その権威を尊重しました。平氏を屋島・壇ノ浦に攻めた時には、幼い安徳天皇の身の上を案じて、なんとか無事に迎えたいと考えました。頼朝は、出先の範頼に宛てた書状の中に、「猶々(なおなお)返す返す大やけ(=天皇)の御事、事なきやうに沙汰せさせ給ふべきなり」と指示しています。平氏の方では、清盛の妻が孫の安徳天皇を道連れに入水したのですから、大きな違いです。「公」に従うか、「私」をほしいままにするかの違いです。
 文治元年(1185)、尾張国の玉井四郎助重という者が、勅命に背いたかどで召喚されました。ところが、出頭しないばかりか、朝廷を誹謗さえします。その報告を聞いた頼朝は言いました。「綸命(りんめい=天皇の命令)に違背するの上は、日域(=日本)に住すべからず。関東を忽緒(こつしょ=ないがしろに)せしむるに依りて、鎌倉に参るべからず。早く逐電すべし」と。つまり勅命に背くならば、日本に住むことは許されない。幕府の指示に従わない者は、鎌倉に来て保護を受けることはできない。さっさと日本を出て行け、と国外追放を宣告したのです。朝廷に対して無礼な者に対しては、このように、毅然として厳しい裁断を下したのです。
 頼朝自身、朝廷からの申し付けには、恭(うやうや)しく従っています。文治5年の春、内裏の建築費を献上するようにという下命を受けると、「仰せのこと、ひざまづいて承ります。…朝廷でご必要なことは、幾度でも、頼朝こそ奉仕すべきですから、力の及ぶ限り、奔走させていただきます」と頼朝は答えています。
 この時代、武家の棟梁である頼朝の一挙一動は、日本中の注目の的でした。もし彼が朝廷に対して傲慢であったならば、武士はこれにならったでしょう。しかし頼朝は、従順に勅命を承り、いかに困難なことでも、必ず奉仕させていただきますと誓い、実行に努めました。その一方で、勅命に従わない武士に対しては、「日本から出ていけ」と言い放ったのです。
 このように頼朝は、尊皇心の篤い武士であり、日本人でした。だからこそ、彼は朝廷から地方統治の委任を受けて、その認可の下に幕府政治を行う道を選んだわけです。この頼朝の選択により、天皇の権威と、幕府の権力とが分離した日本独特の国家構造が生まれました。それはあくまで、天皇の権威の下に、天皇の委託を受けた幕府が実際の政治を行うという仕組みでした。
 正治元年(1199)、頼朝は51歳の生涯を閉じました。彼の鎌倉幕府開設以後、武士による政治は、約七百年にわたって続くことになります。その間、武士の倫理である武士道は、日本独自の倫理として発展していきます。そして、尊皇・尚武・仁政という武士道の特徴は、すでに頼朝において、見事に表れていたのです。
 また、頼朝の治世は武家政治の模範とされました。とりわけ徳川家康は、頼朝に多くを学び、徳川三百年の基礎作りに役立てました。愛民と尊皇の心をもった頼朝の功績には、誠に大きなものがあるといえましょう。
 ここで武士の特徴を挙げるならば、まず源氏が清和天皇を、平氏が桓武天皇を祖とするように、由緒ある武士は、皇室を祖先にもっています。皇室から分かれた貴族が、京の都を離れて地方の役職をもらい、そこで専門戦士として働くようになったのが、武士の由来です。それゆえ、源平の時代から徳川慶喜まで、武士は天皇に権威を感じ、それを侵すことなく、逆に自分の権力の拠り所として仰いできました。本来、皇室から分かれた貴族の出身であるところに、武士の第一の特徴があります。
 第二の特徴は、戦闘のプロフェッショナルであることです。武士は古くは「もののふ」といわれました。「もの」とは武器を意味します。「兵(つわもの)」「弓矢取る者」とも呼ばれました。弓矢や刀など武器を扱う軍事の専門家が、武士でした。「侍(さむらい)」という名も、主君のそばで警護に当たる「さぶらふ」という言葉から来ています。戦闘者としての自覚は、長く平和の続いた江戸時代においても、武士の精神から失われることがありませんでした。ただし、「武」の究極は、その文字が表すように「矛を止める」ことであり、戦わずして勝つことでした。
 第三の特徴は、土地に密着した為政者であることです。平安時代後期、辺境の防衛に当たった武士たちは、年月を経るうちに、その土地に定着し、自ら土地を開墾して、私営の田畑を営むようになりました。こうして開墾領主となった武士は、「一所懸命」に領地を守り、広げ、受け継ぎ、競合しながら、巨大な集団へと成長していきました。やがて、武士は、土地と領民を所有する為政者となりました。そして、皇室の伝統と、儒教の政治道徳に学んで、領地・領国の経営に努めたのです。
 これら三つの特徴ーー皇室から分かれた貴族の出身、戦闘のプロフェッショナル、土地に密着した為政者―――は、それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応します。
 源頼朝は、武士の持つ三つの特徴をよく体現しており、我が国の武士道を考える際、重要な人物なのです。

参考資料
・平泉澄著『物語日本史』(講談社学術文庫)
・『日本の名著 9 慈円・北畠親房』(中央公論新社)

 次回に続く。

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