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2021年11月06日10:44

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皇位継承11〜女性宮家創設の場合の課題

#女性宮家創設の場合の課題
 私は、第3の方策に女性宮家の創設を揚げてはいるが、原則としては反対である。ただし、戦後臣籍降下した旧皇族の子孫との結婚の場合を除くという考えである。そのように限定する理由は、夫が歴代天皇の血を引く男系男子であるので、皇位の男系継承に貢献し得るからである。その場合を除いて女性宮家に反対するのは、女系天皇の誕生に道を開く恐れが強いからである。
 これまで政府が出してきた方針は、女性宮家の創設を皇位継承問題と切り離すため、女性宮家を一代限りとし、子供は皇族としないという案である。
 その場合、まず女性皇族の配偶者の身分をどうするかということが課題になる。皇族または準皇族とするか、民間人のままとするかで意見が分かれる。皇族とする場合、敬称をどうするかという課題もある。
 女性宮家創設は、女性皇族の結婚相手が民間人の場合、誕生した子供を皇族とすると、民間人男性を父に持つ女系皇族が誕生することになる。これは女系天皇への道を開き、皇統の断絶に至る道ゆえ、私は断固反対する。
 仮に配偶者の身分を皇族とし、子供は皇族としないことにすると、親子で別籍・別姓・別会計という問題が生じる。すなわち、両親すなわち女性皇族と配偶者は、皇統譜に入るが、子供は民間人として戸籍が別になる。両親は皇族ゆえに姓が無いが、子供は民間人として父親の姓を名乗ることになる。両親は皇族費によって家計を維持されるが、子供は皇族費の対象外で養育費・生活費等の支出は別会計となる。
 次に配偶者の身分を民間人のままとする場合、妻・母は皇族で皇統譜・無姓・皇族費で、夫・父と子は別籍・有姓・別会計という構成が、一つの家族といえるのかどうか。また実生活に多くの支障を生じるだろう。
 いずれの場合も極めて不自然な状態であり、わが国の親子一体・夫婦一体の伝統に反する。あたかも夫婦別姓論者が目指す夫婦別姓、親子別姓、夫婦別会計のサンプルのごときである。
 私の案のように、女性宮家創設は旧皇族の男系男子孫との婚姻の場合に限ることにすれば、これらの問題点は解決できる。配偶者となる旧皇族の男系男子孫は皇統譜に入り、女性皇族と配偶者の間に生まれた子供も皇族とする。姓と会計の問題も生じない。

#秋篠宮家の長女・眞子様のご結婚と女性宮家の問題
 秋篠宮家の長女・眞子内親王殿下は、本年10月26日に小室圭氏と結婚された。このご結婚問題をめぐって、女性宮家を創設する案が出された。誠に危険な案だった。眞子様が小室圭氏と結婚し、眞子様を当主とする女性宮家を創出することになると、極めて大きな問題が生じるところだった。
 まず夫と子にも皇族の身分を与えるのかどうかが検討点になる。現行の皇室典範は、第15条に「皇族以外の者及びその子孫は、女子が皇后となる場合及び皇族男子と婚姻する場合を除いては、皇族となることがない」と定めている。この規定を改正して、女性宮家の当主の夫を皇族とするという考え方が出された。夫を皇族とするならば、眞子様の場合、小室圭氏を「王配殿下」などと呼ぶことになるわけである。また、父母とも皇族とするならば、その子も皇族とすることになる。その子は、もともと民間人男性を父に持つ女系皇族となる。実にとんでもない案である。
 眞子様は皇籍を離脱し、一般国民になって結婚し、小室眞子氏となった。だが、問題はなくなっていない。もし将来、悠仁親王殿下がご結婚されなかったり、もしくは子供が生まれなかった時、皇籍離脱したとはいえ、小室眞子氏に子がいたら、悠仁様の次の世代で天皇となるのは眞子氏の子となる可能性が出てくる。父親が臣籍である「臣下の子」が皇籍に復帰した例はある(第84代順徳天皇曾孫の忠房親王)。女系の子孫の皇籍復帰の例はないが、もし小室眞子氏の子が皇籍復帰し、天皇になったとすれば、母方でしか歴代天皇につながらない女系天皇となる。そして、小室圭氏は、天皇の父となる。
 女系天皇の誕生は、父方の血筋を中心に見れば、歴代の皇統とは異なる小室王朝への交替である。それは、神武天皇以来の皇統の断絶である。小室圭氏は、日本史上、蘇我入鹿、道鏡、藤原不比等、平清盛、足利義満、織田信長らの誰も侵すことのなかった皇室の権威を侵し、皇統を奪う者となる。実に恐るべきことである。(註10)


(10) 皇位簒奪の防止
 わが国は、天照大神を祖先とする天皇が治める国である。このことが絶対的な規範として確立されたのは、飛鳥時代である。大化の改新のはじめとなった乙巳の変で、蘇我入鹿は皇族を滅ぼして皇位を奪おうとしたとの疑いで殺害された。以後、天皇家の血統を受け継がない者が皇位を奪って自ら天皇になることは絶対に防ぐべきこととされた。
 壬申の乱や以仁王の挙兵は、皇族同士の争いだった。
 藤原不比等は自分の娘を天皇家に嫁がせ、生まれた子供を天皇にして外戚として毛権勢を振った。平清盛もまた自らの娘が生んだ子が安徳天皇になると、外戚として栄華を極めた。
 自分の実子を天皇にしようとしたと考えられる例としては、足利義満がある。義満は実子義嗣を親王に準ずる形で元服させた。義嗣を皇位に就かせ、自らは上皇(治天)に就く意図があったと疑われる。だが、その直後、義満は急死した。義満の死後、朝廷が太上法皇の称号を贈ろうとすると、長子義持は辞退した。
 本人が皇位に就こうとした例としては、道鏡がある。孝謙天皇の寵愛を受け、女帝ともに自らが天皇に即位する準備を進めた。しかし、宇佐八幡神託事件が起こり、怒った称徳天皇(孝謙天皇が重祚)は道鏡を左遷・配流した。それによって、即位が防がれた。
 織田信長について自分が天皇になろうとしたのではないかという説がある。明智光秀の本能寺の変は、これを防ぐためだったという見方もある。だが、信長には尊皇の姿勢があり、皇位を侵すというより、自らを生きながら神として礼拝することを命じるという特異な行動をした。
 小室圭氏について言えば、彼を道鏡にたとえる見方があるが、道鏡にたとえ得るのは女性天皇が即位した状況においてのみである。例えば、愛子様が女性天皇になった場合、女帝に近づく男性が現れれば、第二の道教にたとえられよう。また、小室圭氏自身は皇位継承資格を得られない。足利義満のように自身の子を皇位に就けて、その父の立場で太上天皇を狙う可能性はある。その時は皇統は断絶し、小室王朝になってしまう。

 次回に続く。

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