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2015年07月01日11:10

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ファンタジーの中へ(57) 北村薫「いとま申して 「童話」の人びと」

 写真は「童話」の表紙    ネットから

北村薫「いとま申して 「童話」の人びと」文芸春秋2011
北村薫「慶応本科と折口信夫 いとま申して2」文芸春秋2014

 「いとま申して」は3部作になるとのことで、まだ完結していない。北村の父、宮本演彦の大正13年(14歳)から昭和20年頃までの約20年間の日記をもとにして、昭和戦前期の時代を復元したものである。日記と言うものは本人が分かっていることは省略されるので、90年前から70年前という期間の父親の生活や人間関係は、日記だけでは分からない。そこで、昔の関係者からの聞き取りが大事なのだが、横浜市保土ヶ谷の宮本家は名家であって郷土誌にも名を残していること、父の友人たちの中にも著書のある人々もいることなどデーター集めに有利な条件があった。
 題名は父の辞世「「いとま申して、さらば」と取り行く、冬の日の竹田奴かな」が元になっている。「いとま申して、さらば」は説教節の常とう句とのことである。私が聞いたことのある説教節は、盆踊りのやぐらの上で歌われた「鈴木主水(もんど)」の悲しい名調子だけだったが。今調べてみると「心中天の網島」とストーリーがよく似ていた。

 作者は推理小説作家なので単に父親の伝記というだけでなく、推理の仕掛けがしてあるようなのだ。それが「序 春来る神」らしいのである。作者が小学校低学年の頃と言うのだから1949年生まれだと1957年ぐらいだろうか、 その春に20歳くらいの女性が埼玉県杉戸町に父を訪ねてきた。何を話したのか子どもの作者には関心もなかったが、その女性を見送った父は「本当に、いい子だ」と繰り返していたとのことである。その女性が誰だったのか分かったのは父の日記を読んでからで、その女性の訪問は父の日記(戦争末期に終わっている)の結びの一行だと感じられたとのことである。
 その女性は当然ながら、父の友人の誰かの娘さんだと考えられるし、私の読んだ第2巻までに、彼女の父親か関係者が登場しているはずなのだが、さっぱりわからないのである。大事なヒントを読み飛ばしているらしい。いつものことだが。

 副題の「童話」とは、西條八十が主宰していた雑誌で、ここに当時中学生だった父と妹のマスミも投稿していたのである。北村薫は父と叔母の血をひいていたのだ。
 最初に登場する童話に人々は、意外にも淀川長治である。彼は表紙絵の川上四郎のファンだったらしく、「まあ 素的ですね。・・・では、サヨナラ」という感想文をよく投稿していたという。後年の映画評のセリフと同じなのだ。
 もう一人の常連は父より6歳上の金子みすずであった。みすずは八十の崇拝者で彼に読んでもらうために童話や詩を投稿していたのだが、八十がフランスへ留学してしまったことで、そしてその後の彼女の結婚で運命が暗転してしまった。

 神奈川中学をやっと卒業した父は、慶応の予科に入学する。その前に、「童話」は廃刊になって、新しい雑誌の企画が浮かんだろ消えたりしていた。その春、第二回童謡童話茶話会が開かれ、ここで、父は「童話」の投稿者だった関英雄と千代田愛三に会う。二人は少し年下だったが貧しくて、関の方は役所の給仕をしながら夜間中学に通い、千代田の方はさらに貧しく、英語学校にかよいながら、身を立てるために生け花を習っていた。言葉づかいなど女性的な少年だった。
 関の方は後に童話作家になり、本書にも引用される「体験的児童文学史」の著者である。しかし、千代田はその後結核になり長く生きることはできなかった。もっとも、結核は当時よくある死病だった。父の兄もすでに結核で死んでいるし、第2巻ではかわいがっていた弟を同じく結核でなくしている。父の父親は医者だったのだが。
 さて、関と千代田は童話の発表の場として、同人誌「羊歯」を企画し、父と妹にも参加を依頼してきた。父は編集の二人と歳が離れていることを理由として、妹のマスミを推薦した。他に、「めだかの学校」の作詞者、茶木七郎も入っていたという。当然ながら二人は若く貧しく資金はない。まず、ガリ刷りの道具を買うための金をためて、会員から投稿と会費を集めて二人でガリ刷りをして発送するのである。
 昭和4年に、「羊歯」は4号をもって廃刊となる。同人たちの意欲がなくなって原稿が集まらないからというのである。また、千代田の父が事故で仕事ができなくなり、さらに貧しくなった千代田は簡易保険局の給仕になり小学校の教員を目指したが、昭和10年に肺結核となり翌年横浜市の療養所で亡くなった。25歳だった。これらの記録は、盟友であった関の「体験的児童文学史」に留められている。関は、千代田の「お月さまと蛍」を引いていて、北村は、その1節「お月さんは、私共蛍の生みの親ではありませんか?」を引用している。千代田の両親は養父母だったのである。ただし、養母からは深く愛されていたという。
 しかし、夭折したとはいえ、千代田も「坂の上の雲」を見ていたにちがいない。もって、瞑すべしであろう。

 慶応予科では、歌舞伎にくわしい加賀山直三と友人になって、その後の歌舞伎鑑賞の案内役になった。後に、加賀山は著名な歌舞伎評論家となった。

 第一巻の最後は、日記から「僕は一生、創作家たり得ないかも知れない。だが而し、かうして日記帳を約十冊書き伝えた。・・・僕の遺書である。」を引用している。

 次は、第二巻に進むのであるが、内容的には、加賀山との歌舞伎鑑賞、折口信夫の授業、それに宮本家の収入が減って来て土地などの財産を整理しなければならなくなったこと、弟の死、妹マスミの海水浴場での事故などが、主な内容になっている。
 しかし、実はあまり印象に残ることはなかった。淡々と進んでいくのである。それに私は歌舞伎をみたことがない。
その中で、少し気になったのは、生涯の師となった折口信夫の最後の奈良見 学旅行に参加せず、別の歴史学の奈良旅行に参加していることである。若干の違和感が生じていたのだろうか。多分、第三巻では折口に勧められた沖縄での民俗学研究と教師生活になるのだろうから、そこで明らかになるのだと思う。



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