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2011年03月29日22:41

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小説の中の謎(76)  破滅型の華

 シャルル・ボードレール(1821-67)の詩集「悪の華」は、若いころに読まねばならぬとかじったものである。ほとんど分からないのは、鈴木信太郎訳(岩波文庫)も堀口大学訳(新潮文庫)も、擬古文というのか、その日本語が分からないからであった。で、今になって、あれは何だったのか気になりだした次第である。
 「悪の華」とは何なのか。堀口訳「読者に」には、「・・・われ等が肉をさいなむは、/暗愚と、過誤と、罪と吝嗇/乞食が虱を飼ふやうに/・・・忘れがたない悔恨を。」とあるように、犯罪にあたるような悪ではなく、道徳的な悪徳が中心になっている。さらに、もっとも悪であるのは倦怠(アンニュイ)だというのである。ボードレールが努力を価値ある行いとする枠組みの中に生きた人だったことがよくわかる。
 確かに、ボードレールは財産を蕩尽して禁治産者にされてしまったのであるから悔恨もあってしかるべきであるが、たぶんそのことではなく、価値ある行いをしない倦怠が悔恨を産むという心理的な悪循環のなかにいたのであろう。
 つまり、日本で言えば太宰治のような破滅型の私小説作家的な詩人だったのである。
 「旅へのいざなひ」では「わぎ妹子よ、わが恋人よ、」と呼びかけ、「ああ、かしこ、かの国ゆかば、ものみなは、/秩序と美、豪奢、静けさ、はた快楽。」とある。ここでいうかの国とはオランダのことと解されているが、そうではないだろう。パリが悪徳の巷で、オランダが理想の国であるはずがない。もちろん、かの国とはあの世のことである。
 ボードレールは、穢土たるフランスあるいは心理的地獄を逃れて、自身の浄土へ恋人とともに行きたいと願っているのである。彼は、浄土教に触れたのであろうか。そんな伝記的事実はなさそうであるが、心理的には「厭離穢土・欣求浄土」の枠組みの中にあったのではなかろうか。
 「悪の華」と訳されているが、「悪」では広すぎる。「悪徳に咲いた華」と限定すべきであろう。そうするとサドの「悪徳の栄え」と似てくるので避けたのかもしれない。そおような遠慮も分かりにくくした原因に違いない。
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