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2011年03月11日06:45

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小説の中の謎(75)  事実の限界

 無着成恭編「山びこ学校」1951 は子供のころに読んだ。巻頭に、詩「雪がこんこん降る。/人間は/その下で暮らしているのです。」があり、次に、江口江一「母の死とその後」では、父の死んだあと3人の兄妹をかかえた病弱の母の苦闘と意地が迫真的につづられ文部大臣賞を受けたものである。
 山びこ学校は、この本を読むと貧しい山奥の山村という印象で、私も読んだ当時はそう思っていたが、改めて地図を見ると山形市のすぐ近くであった。
 当時、生活綴り方運動というものがあり、卒業したばかりで赴任した無着先生は、よくしらない山村の生活に体当たり入って行って、中学1年生の生徒たちに、自分たちの生活、遊びや勉強のことはもとより、農林業経営、やみ米、どぶろく密造、新興宗教など周囲でおきていることを具体的に、分析的に描かせたのである。先生は江口少年に日記を書くことを勧めているが、これは通常の子供の日記、つまり楽しかったことや悲しかったことを描くものではなく、農業経営日誌と言うべきものであった。
 その後、森林組合に勤めていた江口江一氏が、小さい子供たちを残して死に、再び父の死とその後の思いを子供たちにさせることとなったというコラムを読んだり、明星学園の教師となった無着先生と、生徒代表と言うべき佐藤藤三郎氏との論争などの記事を読んでいたが、あまり関心がなく冒頭の詩を時々思い出す程度だった。
 佐野眞一「遠い山びこ」1993 は、「山びこ学校」の地元にもたらした問題や就職した生徒たちのその後を追跡したルポルタージュである。
 これによれば、山形県では雪は「ぞくぞく降る」ものであって、こんこん降ったのは作者の石井少年が、外来者で、地元になじんでいなかったからだということだった。わたしもいささか宙に浮いていると思っていたが。
 無着先生は地元を追われた。あまりにも地元の恥をさらして、反対があったにもかかわらず出版したこと、その民主化運動に共産党の影をみられたことなど、父兄の憤激をかったのである。確かに、いまではプライバシー問題になるであろう。このような事態は、当時の封建的慣習の残る農村での、民主化に熱心な先生に良く起きたことだった。
 さらに、明星学園に移った無着先生は、もはやその光を失っていた。明星学園は医師や大学教授の子弟からなる自由主義的な学校であって、「山びこ学校」とは、まったく経済的・文化的基盤を異にするものであった。ここでは、体当たりで生徒の心に入って行く手法は無効であり、ただ、生徒たちに不審がられただけだった。今は全国的にそうなっているが、大人と子供の生活は峻別され、分業なのである。したがって、子供の作文に生活のことはほとんど出てこないであろう。農業と同じ自営業とはいえ医院経営のことを子供が知るはずもなく手伝えるはずもない。その綴り方が面白いはずもない。
 かって、大江健三郎が生活綴り方に批判的なことを書いているのをみて、なぜなのか不審であったが、今は私もそう思う。事実はその状況と一体であり、別の状況へ飛躍しないのである。読む者の意識はいつまでもそこにとどまる。
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