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2011年01月31日14:11

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歴史途中下車(5)  国譲り(3)

 大国主に宗像の地をもらってからの出雲との関係はどうであったか。日本書紀本文にあるように、連絡員や人質を出雲に送っていたのである。天穂日命(あまのほひのみこと)、その子の大背飯三熊之大人(おほそびの みくまの うし)、さらに天国玉の子天稚彦(あまつくにたま あめわかひこ)などである。
 この天稚彦は、高皇産霊尊(たかみむすび)の送った連絡員を殺したと疑われて殺されてしまった。その妻の下照姫や友人の嘆きが記されている。冤罪だったのだろうか。
 これらの人々は、国譲りの交渉に派遣されたにもかかわらず、大国主を恐れてその部下になっていたように書かれているが、それは言いがかりであって、最初から大国主の部下として派遣されたのだ。力関係からみてそれしかありえないだろう。
 大国主の勢力範囲は、古事記によれば、東は越の国(新潟県)、西は宗像(福岡県)で、それぞれ政略結婚をしている。つまりは、日本海の交通をおさえていたのであろう。そして、「神社辞典」東京堂出版によれば、埼玉県大宮市の氷川神社は、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命(おおなむち、大国主の別名)を祭神としていること、武蔵国造は、出雲国造と同族であり、当地方の開拓は出雲系の一族によるものという。関東にも、出雲の勢力が入っていたのである。
 この大国主から、どのようにして権力を奪ったのだろうか。書紀には、経津主(ふつぬし 千葉県の香取神宮の祭神)と武甕槌神(たけみかづち 茨城県鹿島神宮の祭神)の二人が大国主のもとに現れたことで、勝負の結果を悟り権力を譲ったとある。ここで経津主の名に注目したい。大国主、その子事代主と同じ称号の主を持っている。大国主から与えられたのでないか。もとは、その配下だったのであろう。この主の序列は、大国主ー国主(県主 あがたぬし)ー地主と思われる。京都の清水寺境内にある地主神社(じしゅうじんじゃ)は縁結びで有名であるが、もとは文字通り一帯の地主、つまり領主だったのであろう。大国主の出雲大社と同じ縁結びの神であることも意味があるのであろう。
 なお、古事記では、子の一人事代主は承知したが、もう一人の建御名方は反抗して、諏訪湖(諏訪大社)に逃げて降伏したという。攻め手は関東の神であるから、信濃へ攻め込まれたのであろうか。つまりは、関東がアマテラス方になっていたことが決定的だったのである。
 このことが起きたのはいつのことなのか、次に検討しよう。
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