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2011年01月21日19:59

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歴史途中下車(1)  筑波山と富士山

 常陸国風土記によれば、富士山は神祖(みおや)の尊が訪ねてきたのに、忙しいと言って門前払い。それに対して、筑波山は歓迎の宴を開いてくれた。それ以来、富士山には年中雪が降り人も登らないようにされ、筑波山にはいつも人のおとづれが絶えず、栄えることとなった、という神話が記録されている。
 筑波山は関東平野のどこからでも、特徴あるとがった二つの峰をみることができるし、当然富士山もよくみえる。空気の澄んでいた古代には年中見えたに違いない。
 この神話は、常陸の国、つまり茨城県の側の立場であって、富士山のある、甲斐・山梨県や駿河・静岡県は別の見方をしていたであろう。
 山部赤人の百人一首「田子の浦に打ち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」という、富士賛歌がそれにちがいない。確かに、富士浅間神社の祭神は木の花の咲くや姫であった。神祖の尊の呪いを打ち消しているだろう、と思っていた。
 しかし、念のため、梅原猛「さまよえる歌集」をみて、そうはなっていなかったことに気がついた。梅原は常陸国風土記はお国自慢を記録したのでなく、これが日本人の伝統的な見方であったのだ。ところが、台頭する藤原不比等の意を受けた赤人が、それまでの死の山のイメージを転換させ、天皇制日本の象徴としたのだ、というのである。
 尊敬する梅原先生ではあるがこれはいただけない。確かに天智天皇、天武天皇以降、実質的な日本統一(少なくとも関東以西)が進められたであろうが、風土記の記録する伝承の時代はそれぞれ地域に割拠する部族、豪族が政治、信仰、生活の単位であったはず。駿河の有名な弥生時代の登呂遺跡の人々や甲斐の多くの遺跡に住んでいた人々が、富士山を死の山だと思うはずがないのである。第一、どちらも関東平野にないので筑波山は見えないし。
 気象庁の予報が完備するまで、それぞれの地域では山や海、川などの地形と雲の動きの関係を観察して、天気の予報をしていたのである。富士山は甲斐や駿河の国の人々にとって、気象予報の定点になっていたはず。
 死の山などととんでもないことだった。梅原は三輪山のような裾を引いたなだらかな山が古代日本人にとっての神の山だったというのだが、それは大和の国つまり奈良盆地の話であろう。わたしも、かって読んだときはそのまま信じていたが、これはおかしい。三輪山のことなど縄文・弥生時代の関東の部族は知りもしなかった。だから、神の山などと思ったはずもない。
 日本人意識が形成されたのはずっと後のことだろう。
 ということで、失われた甲斐や駿河の国風土記には、筑波山などには一言も触れず、富士山の神が称えられていたことは間違いない。
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