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2011年01月16日20:21

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賢治の動機(6)  とし子の遺言

 死に際して、とし子が何か遺言したはずだと思うのだが、どうだろうか。
確かに、父には、また人となって社会に貢献すると言っている。では、賢治にはないのか。ないはずがない。
 賢治の場合は、父には、「自分の童話や詩に何の価値もない。それは捨てて法華経を印刷して人々に配ってほしい」と遺言して、父を感動させている。
 母には、「自分の書いたものは、仏さまの言葉です」と言ったとのこと。つまり、詩「春と修羅」とは考え方が変わり、「まことの言葉」であったのだということである。
 そして、弟、清六氏には、「書いたものを出版したいというところがあればどこででも出版してくれ」と、言い残した。清六氏はこの遺言を守ったのである。
 では、とし子は?。11月末にとし子が永眠して、その翌年の1月4日、賢治は原稿の入ったトランクを持って上京し、大学に行っていた清六氏に、出版社の東京堂に持ち込むように頼んでいる。これは断られ、清六氏は東京堂は宝の山を逃がしたのだと述懐している。この事実を持って、賢治は妹の死に大げさに嘆いてみせて、そのすぐ後に自分の名声を追い始めたのだ。賢治は野心家だ、と非難する人がいた。
 しかし、これは流れから見てないだろう。賢治の嘆きが見せかけだとしても、その姿を一番見ていたのは清六氏であった。清六氏が一番に不審に思うはずではないか。
 そうでなく、これがとし子の遺言だった、つまり童話の出版をもって社会貢献、お釈迦様の言葉を広宣流布するようにとの遺言である。賢治を生かすためにはこれしかなかったであろうから。遺言はすぐに実行されねばならない。あまり気のないようではあったが。
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