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2011年01月16日17:15

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賢治の動機(5)  からかうとし子

 詩「無声慟哭」に、とし子が「おら おかないふうしてらべ」とか「それでもからだくさえがべ?」と、母に聞く場面がある。これは、母に甘えているのだ、と解釈されている。むろん、その都度、母は否定する。賢治も心の中ではあるが、強く否定する。「どうかきれいな頬をして/あたらしく天にうまれてくれ」、「ほんとうにそんなことはない/かえつてここはなつののはらの/ちいさな白い花の匂いでいつぱいだから」などである。
 これらのとし子の言葉は、沈んでいく母や家族の気持ちを引き立てようとしていると考えられないか。臭いだろ、というのは、子規の「痰のつまりし仏かな」を連想させる。子規の場合も、治してみせるという妹がいたし、悲しむ母もいた。賢治の家族の状況とよく似ている。
 さて、ここで言いたいのは、とし子の、いわば自虐は賢治に向けられていたと考えるべきということである。なにしろ賢治は、とし子を菩薩あつかいしている。それに対して、臭いだろ、菩薩じゃないんだから、と言っているのではないだろうか。賢治を常々からかっていたとし子の最後のからかいであろう。
 この場面を考えるときに、どうしてもドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の中の、ゾシマ長老の臨終の場面が思い出される。ゾシマ長老は、一修道士であるが、農民から生神様のように慕われていた人物である。アリョーシャが模範と仰ぎ、尊敬置くあたわざる人物とされる。ロシアでは、徳の高い修道士の死体からは腐敗臭がしないと信じられていた。ところが、このとき尋常ならざる臭いがたちこめ、ゾシマ長老に反感を持つ修道士たちに、正体が暴かれたと思わせることとなり、強いショックを受けたアリョーシャは酒場で飲み明かすこととなった。
 当時、「カラマーゾフの兄弟」は翻訳されていたと思うので、賢治ととし子は読んでいたであろう。とし子の言葉の本当の意味は、賢治にしか分からなかったはずである。
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