死をのりこえようともがく人がいる。エミリ・ブロンテ「嵐が丘」のヒ−スクリフは、愛するキャサリンが自分の出奔中に死んだというので、キャサリンの兄弟、その夫、娘、自身の妻や息子を含む関係者一同に復讐する物語である。キャサリンの死に何の責任もないのだから、まったく理不尽な話であった。キャサリンの娘(同じくキャサリン)も、自身の息子も下男下女扱いにた。
結局、キャサリンが迎えに来てくれたと言って、何も食べなくなって死に、嵐が丘の嵐は終わり平和な田園がよみがえる。台風一過、ほっとしたものである。しかし、ヒースクリフが憎めないのは、その動機が純粋だったことに共感できるからであろう。ある意味で、不可能とあきらめずに死に挑戦し続けたのである。
そういえば、宮沢賢治にもそういう面があった。とし子との永訣に納得せず、曲がった鉄砲玉のように駆ける賢治の姿はヒースクリフを思い起こさせる。
テレビドキュメンタリーあったが、相田みつをの母も息子たちの戦死に納得せず、死ぬまで狂気となって息子たちを探し求めていたという。
「思い出のマーニー」でも、アンナは祖母の死を許せず心を閉ざした。
多くはただあきらめるだけなのだが。
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