古い習慣であるが、神仏に何かを願うときは、水垢離をしたり、お百度参りをしたり、何か好きなものを断ったりして願をかけたものであった。
賢治はあてもなく冬の山道を歩きまわっている。何かを願っているのでないのか。それが、魔法のランプを手に入れるためと言われても、子供だましのようで、にわかには信じがたい。
賢治は5月21日に、再び、「小岩井農場」へ行く。そのパート九で、ユリアとペムペルに会うことができた。
「ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ/わたくしはずいぶんしばらくぶりで/きみたちの巨きなまっ白なすあしを見た」
「きみたちとけふあふことができたので /わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから/血みどろになって逃げなくていいのです」
そして、二人に会ったところを、聖なる点と呼びたいという。
魔法のランプとは、ユリアとペムペルのことではないのか。この一連の小岩井農場行きにおいて、ランプに匹敵する神秘的ないしファンタジックなものは他にない。
この長い詩は、前半部の現実的描写と後半部に多い幻想との二重構造になっている。さらに、幻想部分には、いわば反省、常識的な世俗的な立場からの反省の声が二重かっこで注記されている。この部分は、宗教的に高揚している賢治の立場ではない。この注記がどこにかかっているのか、それに、二重かっこが落ちているのでないかという部分があって、解釈が難しいところがある。
ここでは、宗教的な幻想に会うことが賢治の目的であったという立場をとる。ユリアとペムペルは、賢治の決心を支持するために出現した、と賢治は解釈したのであろう。
そして、最後にその決心が宣言される。
すなわち、1.じぶんとひとと万象といっしょに至上福祉にいたろうとする宗教的情操。
2.その願いに疲れて、じぶんとたたひとつのたましいとどこまでもいっしょに行こうとすること、この変態を恋愛という。
3.恋愛の本質的部分を無理にごまかして得ようとする性欲。
この3段階は、可逆的である。同様の内容は、とし子の「自省録」にもみえるものである。二人の価値観が一致するのは当然であろう。いつも語りあっていたのであろうから。
この一般的な解釈は、3段階はそれぞれ独立していて、宗教的情操に到ると、恋愛も性欲もないとすることのようである。
しかし、それでは社会は成り立たない。現世浄土でもない。3は2に含まれ、2は1に含くまれると考えるべきであろう。
賢治は修羅から脱したのだろうか。
そうはならない。賢治の願かけは、もちろんとし子の快癒である。そして、賢治の修羅が因となり、とし子の病気の果を結んだと、賢治が信じている以上、修羅から逃れることはできないのである。
家族の病気快癒の願かけは、古来もっともありふれたものであった。賢治もその因習に従っていたのである。
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