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2022年06月14日17:36

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日本の心127〜大東亜戦争は、こうすれば回避できた

 私は、大塚寛一先生の「大東亜戦争は戦う必要がなかった」「日本には厳正中立・不戦必勝の道があった」という希有な歴史観を学んできました。そうはいっても、日米開戦は避けられなかったのではないか、どうすれば避け得たのか、という質問があろうことと思います。浅学非才ではありますが、現時点での私なりの考えを記しておきたいと思います。

●ハル・ノートにどう対処すべきだったか

 昭和16年11月26日、ハル・ノートを突き付けられた時、日本の指導層はこれを最後通牒と解し、対米決戦へと歩を進めました。ポイントは、中国から撤退すべしという要求の範囲に満州を含むと受け留めたことです。しかし、ハル・ノートは満州を含むか否か明示していませんでした。この点を問いただして、外交交渉を続ける余地があったのです。確認もしなかった日本の外交はずさんでした。
 昭和天皇は、最後まで対米開戦を望まず、外交による打開を求めておられました。指導層はその御心にどこまでも沿おうと考えるべきだったと思います。御心に背いて開戦を決定した東条の責任は大きいのです。
 近年、ハル・ノートの対応について傾聴すべき意見が出されています。まず小室直樹氏、日下公人氏の共著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社、平成7年刊)から要点を引用します。

 小室: 戦争をしない方法の「一番簡単なのは、ハル・ノートを突き付けられた時に『はい、承知しました』って言ってしまえばよかった。そうすれば戦争をする必要は無かった」
 日下: 「実行はズルズル将来へ伸ばせばいいんだから」
 小室: 「ハル・ノートには日程はついていなかったんだから」。「国際法の無理解」のため「ハル・ノートを理解できなかったから日本は対米戦争に突入した」
 日下: 「ハル・ノートの内容を世界に公開すべきでした」

 両氏の意見をさらに推し進めているのが、片岡鉄哉氏です。片岡氏は、戦後日本外交史の国際的な権威として名高い方です。氏は概略、次のように述べています。(『アメリカに真珠湾を非難する資格はない!』 月刊誌『正論』平成11年10月号)
 「日本にとって勝つとは、戦争を回避することだった。そのために政府は手段を選んではならなかった。名誉ある不戦を求めて手段を選んではならなかった。‥‥日本政府は、その最後通牒の内容を暴露すべきだった。ルーズベルトが、ハワイの司令官にも、誰にも知らせないで、最後通牒を出した事実を暴露すべきであった。‥‥ルーズベルトは真珠湾攻撃を両院議員総会で発表して、メディア・イヴェントにしたが、あれくらいの派手なことをやって、誰が戦争を求めているのかを、全世界に印象付けるべきだった。…」
 実はハル・ノートを突き付けられた後、挑発に乗らず、あくまで戦争を避けるべきだという意見が、日本の指導層の一部にはあったのです。この時、ポイントは独ソ戦の情勢判断でした。ここで正確な情勢判断をしていれば、「不戦必勝」の道を進むことは可能だったと私は考えます。再び小室氏・日下氏の共著から要点を引用します。
 日下: 「ハル・ノートが出た頃、ソ連に攻め込んでいたドイツ軍の進撃が、モスクワの前面50キロというところで停止したんです。そのことは、大本営もわかっている。ただ、大本営は『この冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる』と考えていた。『本当に大本営はそう思っていたんですか』って瀬島さん(=龍三、元大本営参謀)に聞いたら、『思っていた』と。
 その頃、『これでドイツはもうダメだ』という駐在記者レポートが各地から来ていた。イギリスにいた吉田茂(大使、のちの首相)も、ダメだと見ていた。それなのに、ベルリンからのだけ信用した。そりゃあ、ベルリンの大島浩(大使)はヒトラーに懐柔されちゃっているから、いいことしかいわない。それを信じたのです。…
 瀬島さんに聞いたんです。『もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか』って。そうしたら『日下さん、絶対そんなことありません。私はあの時、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやると言う人なんかいません。その空気は、私はよく知っています』と」
 以下は私の推測です。わが国は、独ソ戦の戦況を冷静に見極めて、百害あって一利なき三国軍事同盟を破棄すべきでした。そして、泥沼に陥った中国本土や、欧米を刺激する仏印からは撤退するが、満州国は堅持するという方針で対米交渉を続けていけば、そのうち国際関係のバランスが崩れ、欧米列強が相打つ戦況が展開しただろうと思います。そして、わが国は、ルーズベルトの挑発やスターリンの思惑に乗らずに、無謀な対米開戦を避け得る道筋が開けたと思います。
 米内光政大将の言葉を借りれば、一時的に「ジリ貧」にはなっただろうが「ドカ貧」にならずに済み、やがてわが国は英米の信用を回復し、大塚先生の言われるように、満州や朝鮮・台湾を失うことなく、無傷のまま発展を続ける道を進むことが出来たと思います。今後、小室氏・日下氏・片岡氏に続く碩学が現われ、こうした推測を裏付け、また是正してくれるだろうと期待しています。

●三国同盟と日本の進路

 話が後先になりますが、20世紀の日本の運命を大きく左右したものに、日独伊三国軍事同盟があります。三国同盟は、昭和15年9月に締結されました。これが米英に敵愾心を抱かせ、経済制裁を招き、遂にわが国は米ソの策略に引っかかって、無謀な戦争に突入してしまいました。
 大塚寛一先生によると、実は世界的に見て、その前に重要な時期がありました。昭和11年のスペイン動乱です。この内戦は、第2次大戦の前哨戦といわれ、英仏独伊ソの思惑が交錯した国際紛争でもありました。この時が、ヒトラーの行動をよく観察できる好機でした。大塚先生は、ここで彼の野望を見抜いてドイツと防共協定を結ばず、ソ連とは中立を厳守していれば、やがて欧州で英・ソ対ドイツの間で大戦が勃発し、これにアメリカも参戦する展開になっただろうと説かれています。大戦になれば、米英は援蒋政策を行う余裕はないから、日本はシナと共存共栄の道を進むことが可能となったでしょう。
 次は、小室直樹氏が言っていることですが、シナ問題が解決すれば、日米摩擦の種はなくなったでしょう。当時、重化学工業中心に転換する段階に入った日本は、大不況の後遺症で苦しむアメリカから、技術・機械・施設などを輸入すればよかったのです。経済的要請という点では、日米の利害は一致していたのです。
 かえすがえすも残念なのは、ヒトラーの術中にはまったわが国の指導者の無明です。もともと三国同盟を提唱したのはドイツでした。昭和14年9月にポーランドに侵攻したドイツは、大戦を有利に進めるために、イギリスを敵国とする日独伊ソ四ヶ国同盟を構想したのです。まずイタリアが賛同しました。ソ連のスターリンも賛同の回答をしましたが、領土問題で折り合わず、逆に独ソ戦に発展したのです。
 反対を押し切って三国同盟を強引に進めた松岡外相は、三国同盟を改編し、ソ連を加えた四国同盟とし、その圧力を背景にアメリカとの国交を正常化し、シナ問題も解決するという案を持っていました。しかし、彼の考えがアメリカに通用するはずはありませんでした。
 昭和天皇は三国同盟には反対しておられました。天皇は次のように語ったと伝えられます。「同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独乙の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあったのである」と。
 ドイツが最も警戒していたのは、欧州戦線にアメリカが参入することです。そこで、アメリカを太平洋に釘付けにしておくために、日本の海軍力をけん制に利用しようとしたのでしょう。さらに、戦況が不利になったときにも、日本を利用できると考えていたのではないでしょうか。
 昭和16年1月、広田弘毅は野村駐米大使の送別会で、次のように言ったといいます。「もし欧州戦争で、ドイツ側が不利となり、絶望的となった場合、ドイツは、自国の危機を脱するため、あらゆる手段を尽くして、日米を戦わしめるように動くだろう。この時こそ、日米戦争の起こる可能性があり、もっとも危険な時だ」と。6月22日、ヒトラーは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連に侵攻し、ここに独ソ戦の火蓋が切られました。近衛文麿は、しばらくして「あのとき三国同盟を解消しておけばよかった」と後悔したといいます。広田も近衛も、それなりの見識を持っていながら、あいまいな行動をしたわけです。身体を張って軍部を抑えられる政治家が、いなくなっていました。
 この年、ロシアの冬は早かったのです。押し寄せる寒波に、ドイツ軍は苦戦しました。12月に入ると間もなく、スターリンが反攻を開始しました。この時、わが国の指導層は、的確な情報分析と冷静な外交判断ができず、米英との戦争に突入してしまいました。ハル・ノート突きつけられた時の対応については、先に書きました。日本の参戦は、結果として、イギリスを叩き、アメリカを引き付けたことによって、ドイツに助力するものとなりました。
 ヒトラーは翌年春、再びロシアに進撃しました。しかし、欧州戦争の「関が原」となったスターリングラードの攻防は、ドイツの敗退となりました。それが、ドイツの命運を分けたのです。わが国は、緒戦の電撃戦におけるドイツの勢いに幻惑され、ナポレオンも敗退した史実に深く学ばなかったわけです。
 私は、三国同盟は絶対締結すべきでなかったという考えです。しかし、締結してしまった以上は、米英とも同盟を結んで害悪を相殺して中立関係を築き、とりわけドイツへの加担というアメリカの懸念を晴らすのが、善後策だったと考えます。これは、大塚先生の「不戦必勝・厳正中立」の大策の一部をなす独創的な建言によります。こうすれば、アメリカは日本に石油を輸出してもドイツに回る恐れはないとして、輸出禁止は回避できただろうと思います。
 この善後策も採用されなかった場合は、次善の策として、独ソ戦の開戦時または遅くとも昭和16年11月26日のハル・ノート以後に、独ソ戦の展開を見極めて三国同盟を破棄すべきだったと思います。
 実際に、わが国の政府がやったことは、正反対でした。日米開戦後、その同じ月に、三国単独不講和確約を結びました。大戦の展開にかかわらず、日独伊は単独では講和を結ばないという約束です。昭和天皇は、次のように語ったと伝えられます。「三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」「この確約なくば日本が有利な地歩を占めた機会に和平の機運を掴むことがきたかも知れぬ」と。
 米英との開戦はまことに悔やむべきことでしたが、戦争を始めた以上、今度はこれを有利に終結するのが、政治の役割です。しかし、わが国の指導層は、日露戦争の時の先人の貴重な功績に学ばず、善戦している間に講和の機会をつくるという努力をしませんでした。まことに残念なことです。
 「覆水盆に帰らず」といいます。だが、歴史を振り返り、いろいろな道筋を考えてみることは、今日のわが国の進路を考える上で、思考を柔軟にする効果があると思います。

参考資料
・小室直樹+日下公人著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社)
・『昭和天皇独白録』(文春文庫)

 次回に続く。

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