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日記一覧

 賢治は1927年6月付で、ある女と1年間夫婦であったこと、その夏に、村娘から二十銭で買った花が、二円で売れたといって妻が喜んだが、冬には1日の病気で苦しまずに死んだという詩「わたくしどもは」を書いている。状況からいって、この妻はとし子のこ

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 第2集の「北上川はけいきをながし」において、元気なころのとし子と賢治の会話が活写されている。 土手を散歩している二人は、かわせみを見つける。賢治はさっそく、ミチアと呼びかける。「なによミチアって」、とし子の詰問にミの字、チの字の意味をそれ

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 賢治が「春と修羅」となる詩を書き始めたのは、1922年1月からである。その前年の11月から12月にかけてと想定されているのだが、「冬のスケッチ」が書かれている。その中に、「おもかげ」と題された気にかかる詩がある。 「心象の燐光盤に/きみが

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 賢治は詩集の最後で、次の行動を予告する癖があったようだ。第1集では、「イーハトブの氷霧」で童話集の刊行を、「冬と銀河ステーション」では「銀河鉄道の夜」執筆を予告している。 第2集の最後の「岩手軽便鉄道の1月」では、らす地人協会設立を予告し

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 「春と修羅」序は、詩集がまとめられた最後、1923年1月に書かれたものである。とし子死後1年後で、とし子の死は詩集の時期の中間にあたっている。 「わたくしという現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」 ・・・(ひかりはたもち

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