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2024年02月10日12:23

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フィクションと現実(59) 経済地理学とプラント・ハンター

 ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」1997年(原題はGuns, Germs and Steel: A Short History of Everybody for the Last 13,000 Years)
 ユーラシア大陸は同じ緯度で東西に距離が長く、草原で繋がっている。東西方向に長かったため、気候・気温や季節のサイクルが似ており、大陸の1つの地域で飼育されていた家畜や栽培植物を他の地域でも使うことができた。
 古代文明のエジプト文明、メソポタミア文明、さらにギリシャやアレクサンダーからローマ文明もシルクロードによって中国文明と交流し、さらなる技術革新を相互に起こすことで、文明を発展させたのである。
 南北に長いアメリカ大陸では相互に作物や技術を交換することは難しくインカ文明も古代のままに留まってしまった。

 以上が、ダイアモンドの説であって、この雄大な文明の説明に納得した。
 アルフレッド・ウェゲナー(1880−1930)の「大陸移動説」1912 がハードの基盤の説明として、ダイアモンドの理論は、ハードの上のソフトの関係を説明したと言える。

 ということなら、同じ緯度でなら園芸植物も同じものが植栽できるはず。この関係はダイアモンド説を待たなくても了解できただろう。ということで、幕末に来日したドイツの医者シーボルトは、長崎で日本の蘭学生に医学を教える傍ら、日本の豊富な栽培植物を収集しドイツの持って帰ったのである。むしろ、後者の方が本音だったに違いない。というのも、幕府の最初からあった出島のオランダ人は、長崎や東海道で豊富な植物を見ていたわけで。
 長崎に近づく船から見えるいろいろな緑に圧倒されたとのこと。無論、植民地だったインドネシアには熱帯植物がたくさんあった。しかし、途中で寄港する中国大陸の風景は砂漠のようなものだったので、ヨーロッパと緯度のあまり変わらない日本列島に熱帯のような緑があるのに驚いたわけである。

 明治維新で開国した日本にヨーロッパからたくさんのプラント・ハンターが、当時植木市があった東京の染井(駒込駅の傍だったと思う)にやって来たのである。
 幕末イギリスの外交官だったオールコックも、江戸郊外を散策した時にいろいろな形のユリが野生で咲いているのに驚いている。
 江戸時代には日本人も園芸への関心が高くなっていて、家の周りで栽培していたようだし、いろいろな形の朝顔なども鑑賞されていたとのこと。

 ヨーロッパに園芸植物があまりなかったのは、氷河期の時にほとんど全滅したからだとのこと。
 明治維新の文明開化でヨーロッパの技術が日本に導入されたのだが、その先頭に居たのは渋沢栄一だった。逆に、園芸植物は日本からのものが輸出されたわけである。


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