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2024年01月08日10:19

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フィクションと現実(40) 続地名は踊る 千葉県

 酒直卜杭(さかなおぼっくい)、安食卜杭(あじきぼっくい)新田。 
 1660年―(寛文年間)安食村(あじき)卜杭野を干拓して新田を開発。
 解説によれば、「卜」はボク、ウラナウと読み、当時の豊凶を占ったり、その地域の平和や豊作を祈る杭を建て「卜杭野」と呼ばれていたとのこと。
 この辺りは、多分利根川の蛇行した跡で、湿地帯だったのである。印旛沼も手賀沼も川跡湖だったに違いない。

 近くに松虫寺と牛むぐり池がある。寺の伝承によれば、聖武天皇の内親王・松虫姫が病にかかり、松虫寺で療養すれば回復するとのお告げが出たとのこと。それで牛車でここまでやってきて、予言通り回復した。都に帰ることになったのだが、牛は歳をとっていて長旅は無理だったので、置いて行かれたのだが。別れを悲しんだ牛が池に入って死んだのである。
 信じられないような伝説だが、聖武天皇は東大寺をつくり、全国に国分寺・国分雨寺を作っているので、ありえない話ではない。

 印旛沼を見渡す台地の上に、このあたりの支配者だった印旛氏一族の墓地群がある。大小さまざまの墓地が林の中に点在し、小さいものでも前方後円の形をしていたり、大きな円墳もある。不気味な感じだが、房総のむらという歴史公園も作られている。

 一方、手賀沼の方は明るい。常磐線の安孫子の駅から行くと、下の方に湖水が見える。 
 ここに、かって白樺派のメンバー、柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤らが移住して住んでいたことがある。実篤のエッセイだったかで、近くの布施弁天上に遊びに行くとあった。弁天堂は利根川の傍の小高い丘の上にあって、このあたりはよく洪水になったらしいが弁天さんは大丈夫だったろう。
 手賀沼のほとりに山階(やましな)鳥類研究所があって、かって、黒田氏と結婚する前の内親王が研究員だった時があった。


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