著者は1953年生、東大文学部宗教学科卒。日本女子大教授、東大先端科学技術研究センター特任研究員等歴任。
帯に
神道には、開祖も、教義も、救済もない
私たちはいつの間にか神道の信者になっている!
古代から守り続けられてきた日本固有の宗教の本質とは何か?
1.岩と火
原初の信仰対象は磐で、神倉神社のゴトビキ(ヒキガエル)岩などが有名。世界遺産になった沖ノ島は岩山の島。
★神道は原始(自然)宗教であり、すべての自然宗教は大石を神とする。イギリスのストーン・ヘンジやオーストラリアのエアーズ・ロックなど典型的。
2.創造神がいない宗教
初めに水ができて、そこに葦芽(あしかび)の神が発生した。豊葦原瑞穂の国になるわけであるが、確かに葦原の湿地帯で稲作適地に違いない。
そこにイザナミ・イザナギの男女二神の結婚によって、島や国やその他の神々、最後に重要なアマテラス、スサノオ、ツキヨミが生まれた。
★複数の創造神がいるのであって、ユダヤ・キリスト教のヤハウェのような単独・絶対神がいないということ。(日本神話の場合は、単独神は消え去るのみだった)
ただし、その場合もユダヤ人をエジプト帝国から救出して、ユダヤ教を作ったのはモーゼである。ヤハウェがすべてだったわけではない。
3.「ない宗教」神道と「ある宗教」仏教との共存
神は命なのであって、人の誕生から成長を守るはずなので、日本人は正月は必ず、誕生や成長の過程で参拝する。
★魂は死ぬことはなく、柳田国男によれば、肉体の死んだ魂はしばらく里山・裏山にいて、新しい命が生まれればその魂となる。
だから遺体は埋めれば目印を置いておく程度だった。京都の鴨川の東で、東山の麓は鳥辺野と呼ばれる墓地で、鳥に食べさせる鳥葬だったのかもしれない。ペルシャのゾロアスター教の影響があるのだろうか。
西山の方には化野(あだしの)があって、今は化野念仏寺に小さい墓石が集められていて壮観である。
ということで、神道などの自然宗教は命の成長に関心があって、成長を守ってもらうために参拝する。正月には一つ成長するわけだし。
しかし人間には個性がある。道長は道長で、息子の頼道と同じ魂のはずがない。となれば、死者の魂はどうなるのか。ということで浄土教は極楽浄土を保証した。たくさん寺の寄進した藤原一族は極楽間違いないだろうが、一般庶民はどうなる。となれば、藤原一族の親鸞が極楽はすべての人に約束されていると保証したのである。
神道だけでなくすべての自然宗教は生者のためにあるが、後から来た仏教が死者の面倒を見てくれることになった。
著者のように、「ない」、「ある」の補完関係もどきではない。
4.神道とイスラム教徒の共通性
著者はそういうが、イスラムの神はユダヤ・キリスト教以上の絶対神である。
たしかにメッカの黒い石カーバ神殿をめぐって礼拝するのがイスラム教徒の願いだそうであるが、別に石に神が宿っているわけではない。アラーの神の像を作れないし、メッカで拝むとしたらどうしたらよいのか? 世界各地のイスラム教徒はメッカに向かってひざまづいて礼拝する。なら、メッカではとなるので、黒い石のカーバ神殿の周りを廻って祈るのである。カーバ神殿は、古代のイスラム以前から(古代宗教の時には石造の神を祀っていたとのことだが、イスラムが征服した後は石の神は捨ててからっぽらしい)ベドウイン族の最高の神殿だったとのことだが、アラーの神殿にしたのである。
ということで、共通性はない。
5.救済しない宗教
そもそも救済される必要がない。キリスト教では人にはすべて原罪があるとのことなので、救済されなければ地獄に落ちることになる。もっと恐ろしいことは、最後の審判で復活させてもらえないことである。だから復活の日に備えて遺体は腐敗しないように保存されることになっている。(日本のように焼いてしまうのは恐ろしいことだとか)
それに、仏教との分業になっていて、浄土教では、極楽浄土が約束されているので、最初から救済されているのである。
ところで著者の島田裕巳氏であるが、オウム真理教事件の時にオウムは正統な仏教だと信じ込んで、オウムに見せられた発泡スチロールで作った仏像を、その証拠としてテレビで見せていた人。今、ウィキで見るとオウム側の宗教学者だったとの事実関係が列挙してあった。
一方で、たくさんの著作が並べてあるのだが、ほとんどすべて新書版で、学術書らしいものは見当たらない。非常に精力的な人に違いないが、浅慮な面があるようだ。それで、神社の「誕生からの命の成長を見守る」という基本的役割を失念したのだろう。
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